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【愛の発光】
 




「もし願いが叶うというのなら、もっと名無しの傍に居たい。もっとずっと長い時間、あなたの顔を見て、声を聞いて、その肌に触れて、あなたの存在を感じていたい」
「…郭嘉…」
「……離れたくない」


どこか人外のものを思わせる、妖しくて、魅惑的な郭嘉の瞳。


こうして長い間見つめられていると、名無しは自分の心どころか、魂ごと引きずり込まれてしまいそうな錯覚に陥る。


蛍が何故光るのかと言えばその求愛活動の為。コミュニケーションの為なんだ


(郭嘉)


ゴクリ、と名無しの喉が鳴る。


─────蛍………?


「私が死んだら」


周囲を沢山の蛍たちが飛び交う中、月光を背にした男が妖艶な瞳で名無しを見つめながら言う。



「名無し。私を蘇らせてくれる……?」




その一年後、郭嘉は亡くなった。

袁紹の息子たちと北方の烏丸族を討つ為に曹操に付き従って遠征をしていた最中、病を得て急逝した。

生前から不摂生で乱れた私生活を送っていた郭嘉だが、ひょっとしたら彼は己の天命に気付いていたのだろうか。

戦だけでなくあらゆる事をその慧眼で見通していた郭嘉のこと。

もしかしたら、いずれ自分は早死にするだろうという未来すら見越した上でのその滅茶苦茶な振る舞いだったのだろうか?

そんな事を考えると、以前はどうしようもないと思えていた郭嘉の自堕落な生活ぶりさえも、とても無情で哀しいものに感じられ、また違った印象を名無しは抱く。

天に愛された才能を持つ名軍師の死。未だ若くて美しい肉体を持った者の死。

郭嘉の死は、多くの人々に悲しみをもたらした。


哀哉奉孝(哀しいかな奉孝)
痛哉奉孝(痛ましいかな奉孝)
惜哉奉孝(惜しいかな奉孝)


あの曹操にそのような断腸の思いを吐露させた郭嘉の夭折だが、その嘆きは名無しも一緒だった。

もっとずっと長い時間、あなたの顔を見て、声を聞いて、その肌に触れて、あなたの存在を感じていたい

以前、郭嘉が名無しに告げてくれた言葉。

その気持ちは、名無しも同じだったから。


あの夜の事は忘れられない。


今でも覚えている。蛍の光に彩られた水辺の光景。夜空に輝く黄金色の月。

まるで人ではない者かのように思わせる、あまりにも美しい若者の姿。

自分に注がれる甘い眼差し。熱っぽく掠れた低い声、冷たかった彼の肌。


……離れたくない


女性と見れば誰にでも愛を囁く郭嘉。魏国きっての女タラシと名高い郭嘉。

あの時彼が自分にくれた囁きは、彼の本心から出た言葉だったのだろうか。

それとも、いつも通り女性とあれば平等に配られる、彼一流のリップサービスの一種でしかなかったのだろうか。

自分が騙されている事を決して気付かせず、相手の信頼や愛情を得たままでいつの間にか姿を消すのが一流の詐欺師だと言うのなら。

『あんな風に言いつつも、郭嘉様が本心から愛しているのは私だけ』

と大勢の女達に信じ込ませ、彼女達の愛情を勝ち取ったままで姿を消した郭嘉という男性は見事なまでの手法であり、あれこそがプロの恋愛詐欺師と言えるのかもしれない。


……でも。


(彼の言葉が例え真実ではなかったとしても、あの夜私が郭嘉に告げた言葉は本当の気持ちだった)

私と郭嘉はずっとずっと一緒だよ

来年も再来年もそのまた先も、こうして二人で一緒に蛍を見に来ようね

あの時の名無しの言葉は本心だった。叶う事なら、郭嘉とずっとずっと一緒にいたいと思っていた。

人はいつか死んでしまうものだ、という事は名無しだって十分に分かっている。

けれどもあまりにも早すぎた郭嘉の死が、愛する人をあっけなく失ってしまった事が名無しは哀しい。

彼が病に伏せってからも、医者ではない自分には彼の為に何もしてあげられる事がなかった。

その事実が、名無しはただ……ひたすら哀しい。


(郭嘉に会いたい)


一日とは言わない。一時間だけでもいい。

それがダメなら10分だけでもいい。あの人にもう一度会いたい。


郭嘉。

郭嘉。

郭嘉。


会いたいよ……。


我慢しても我慢しても抑えきれない思いの行き先はどこにもなく、名無しの望みは永遠に叶う事がない。

もし過去の記憶が塗り替えられるというのなら、自分は再びあの日に戻り、郭嘉の背中に両腕を回して抱き締めたい。

どんな事があっても、もう二度と繋いだ手を離さない。

あの人の手を、離さない。


『……好きだよ。名無し』


あの時、郭嘉が放ってくれたシグナルに対して、自分も答えを返していたら。

蛍のメスのように、私も発光する事が出来たなら。

『はい。私もあなたが好きです』『あなたを受け入れます』と正直な思いを告げていたのなら、彼と自分の関係もまた違ったものになっていたのだろうか?




また今年も蛍の見られる季節がやってきた。

郭嘉がいなくなってからも、毎年この時期になると名無しの足はひとりでにこの水辺へと向かう。

郭嘉が自分を誘ってくれたように、名無しが『一緒に見に行かない?』『良い場所があるの』と言えば、ついて来てくれる人はいるだろう。

だが、名無しは違う人を誘おうとは思わなかった。

他の人にこの場所を教えたくない、とかそんな心の狭い理由などではない。

ただ、名無しが本当にこの場所に一緒に来たかったのは、郭嘉だったから。

水辺を飛び交う蛍の姿を見る度に、名無しの瞳にジワリと涙が溢れる。

来年もまた同じようにあなたと一緒に蛍を見に来たい、と言った郭嘉の望みを叶える為に、名無しは今年もこの水辺に来ている。

『来年も再来年もそのまた先も、こうして二人で一緒に蛍を見に来ようね』

彼と交わした約束を守る為に、他の人を誘わずに、名無しはこの場所に来ている。

郭嘉が見たがっていた、新しい年の蛍たち。

ここに来てももう彼の姿は見られないと分かっているのに。

振り向けばそこに艶やかで甘い微笑みを浮かべ、自分に向かって手を伸ばすいつもの郭嘉がいるような気がする。


(郭嘉に会いたい)


今の私に、郭嘉の願いを叶えてあげる事が出来たなら─────。


『私が死んだら』


後ろ髪を引かれる思い。

城に戻る際、まっすぐ帰路につく事が出来ず、蛍の群れる水辺を名無しは決まって何度も振り返る。






『名無し。私を蘇らせてくれる……?』





─END─
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