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【ひどいひと】
 




「お前は一生、私の世話だけをしていればいいんだ」
「……子元」
「私だけを見ていろ」
「…あっ…」


グイッ。

伸びてきた男の指先に顎を掴まれ、瞬間、名無しの全身が泡立つ。

自分の目の前にいる男は、間違いなく司馬師だ。

だが、いつもと何かが違う。

名無しを見る眼差しが違う。表情が違う。語りかける声も違う。

注意して見なければ分からないようなほんの僅かな変化でありながら、さっきまでの冷たい笑みとは異なり、今の司馬師からは男の色香に満ちた妖艶なオーラが漂っている。


────名無しの事を堕とそうとするような、誘うような男の目付き。


「どうした。顔が赤いぞ」
「えっ!?な…、なんでもありません!」

完全に意識が飛んでしまっていた事に気付き、名無しが慌てた様子でブンブンと首を振る。

「そうか?熱でもあるみたいに顔中真っ赤だが」
「あ、あの…。違…っ」
「私の奴隷として一生不眠不休で働けと命じたつもりだが、何をそんなにボーッとしている。体温が上昇するほど強い恐怖でも感じたのか?」
「……えっ?」

深い意味は何もなく、名無しの事はただの労働力として求めていただけの発言にしかすぎなかった。

そう告げる司馬師に、自分一人だけが勝手に男の事を意識してドキドキしていたのだと悟り、羞恥心がMAXに達した名無しの顔からサーッと血の気が引いていく。

「ほう。今度は青くなったな。器用な事だ」
「……。」
「それとも、私の命令を何か他の意味に勘違いして受け止めたとか?」

司馬師はからかい気味の口調で言いながら、慣れた手付きで名無しの顔を自分の望む角度に向ける。

つまりは真正面から、互いの視線が間近で、深く絡み合うように。


(ああもうっ…!子元の瞳って、本当に凶器……!!)


悪い意味ではなく、良い意味で。

いや、考えようによってはそっちの方がよっぽど困るし悪い力≠ネのだろうか?

男前の顔でまじまじと見つめられる視線の緊縛プレイ≠ノ耐えられず、名無しはギュウッと目を瞑りながら必死で顔を背けようと試みる。

恥ずかしいやら情けないやら悔しいやらみっともないやらの気持ちが複雑に混ざり合って、穴があったら入りたい!

「数秒おきに真っ赤になったり青くなったり……変な女」

司馬師は喉の奥でククッと笑い、名無しの顎からあっさりと手を離す。

含み笑いの中に混じる、してやったりとでもいうような得意げな響き。

その様子を見て、名無しは確信を得た。


(わざとだ!!)


この人、絶対にわざとだ。分かっていてこんな真似をしているのだ。


曹丕と一緒。仲達と一緒。思わせぶりで、悪質な悪戯が好きで、相手の反応を見て楽しんでいる所が全部一緒。


子元、絶対に私の事からかってるっ!!


「ひ…、酷いよ子元…!」

男の思うままに手の平で転がされているように感じ、名無しの両目に悔し涙がうっすらと浮かぶ。

「私、本当に子元が少しでも喜んでくれたらって、ちょっとでも食べてくれたらいいなと思ってアップルパイを作るって言ったのに…!」

今まで溜めていた物がブワッと溢れ出たかの如く、涙声で訴える名無しを目の当たりにしてもなお、司馬師はやはりどこか楽しげに笑んでいる。

この辺の底意地の悪さといったら、本当に父親にそっくりだ!

「だから、お前が作るなら食べると言っただろう。さっきから一体何が不満なんだ」
「もう嫌です。今後一切作りません!」

これ以上男の言うなりになってたまるかとばかりに、名無しは強い口調できっぱりと拒絶した。

しかし、司馬師は相変わらず涼しげな眼差しで至近距離から彼女の瞳を射抜き、低い囁きを降らせ続ける。

「作ってくれないのか?」
「……えっ?つ、作りませんっ」
「作るんだろう。私の為に」
「えっと…、そ、その……」
「作れ」
「……っ。そんな風に命令されても、今日こそは聞かな……」
「他の女にこんな命令はしない」
「…え…」
「お前以外の女が作った物なら、食べない。食べたくない」
「……。」
「名無し。返事は」
「…いや、です…」
「もう一度言う。名無し、返事は」
「……。」
「───名無し」

硬質でありながら何とも言えず艶を含んだ声が、妖艶な眼差しが、端整で美しい顔が自分を見つめながら何度も自分の名前を呼んでくれる。

司馬師の眼差し一つで高まる心臓の鼓動。言葉一つで掻き乱される感情。

これが現実なら、現実とは何と残酷な程に抗いがたい力に満ちている事か。

「…子元が、食べて、くれるなら…」

ポツリ。

堪えるようにして下唇を噛み締めながら、名無しが小さな声で漏らす。

その瞬間、美しい男の口元が勝者の笑みに彩られていくのを名無しは確かに見たような気がした。


───司馬師はいつもこうなのだ。


名無しの気持ちなど露程も気にしていないような素振りで、どこまでも自己中心的で、意地悪で、強引。

でも、結局なんだかんだで逆らえない。司馬師の事を憎めない。

彼のような男性に求められるなら、例え嘘だとしても女性として嬉しいと思えるから。


自分の、負けだ。


「最初から素直にそう言えばいいんだ。仕方ないから食べてやる」
「…はい。頑張って作ります…」
「───で、結局さっきは何で赤面していたのだ。まさかこの私に女として見て貰えているという凄絶な勘違いでもしていたとか?」
「……。」
「馬鹿だろうお前。全く、自惚れもそこまでいくと大したものだな。『名無しの自意識過剰をどうにかして下さい』と父上に進言してやろう」
「しーげーんーっ!!」


1分も経たないうちだが、早々に前言撤回。


いくら司馬師のような男性が相手でも、こんな風に弄られてばかりいるのはやっぱり全然嬉しくない!!




─END─
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