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【SとM】
 




睡眠不足で鈍い痛みを抱える己の脳と肉体をなんとか奮い立たせながら、名無しは今日も仕事の書類を抱えて曹丕の元に向かっていた。

(はあ…。徹夜しちゃったせいかなんだか頭がズキズキする…。でも、おかげで今日までの書類を何とか完成させる事が出来て良かった!)

通い慣れた廊下を歩き、やがて曹丕の部屋の前に辿り着いた名無しはいつものように小さく拳を作ってコンコン、と扉をノックする。

「誰だ」
「名無しです。本日までの期日だった改正案の書類をお持ちしました」
「お前か。……入れ」

ガチャリ。

扉を開けて中に入った名無しの目に飛び込んで来たのは、執務机の上に積み上がっている大量の書類と巻物に囲まれた曹丕の姿だった。

几帳面な性格故普段から身の回りは常に整理整頓されている曹丕だが、そんな彼の整頓スピードが追いつかないくらい、皇子として目を通すべき大量の書類の山に追われているらしい。

「明日の総会に提出する議題だったな。今すぐ見る。早く貸せ」

曹丕はそう告げて手元にあった書類の束を一旦横に避けてスペースを空け、机越しに腕を伸ばして名無しから書類を受け取り、言葉通りすぐさま彼女の持参品に目を通し始めた。

名無しの目から見て、一体いつ眠っているのか分からないくらい膨大な種類の業務を抱えている曹丕や司馬懿。

しかし、二人ともいつ会っても涼しげな顔で机に座り、初冬の肌寒い空気などものともせぬ様子でバリバリと精力的に仕事をこなしている。

(昨日この部屋に来た時未処理だった分の書類がもう処理済みの箱の方に移動してる…。相変わらず凄い人だなあ、曹丕)

まさに『出来る男』の見本のような自らの主に、名無しは心からの尊敬の念を抱く。

曹丕。名無しの最愛の人。

サラサラとした艶やかな黒髪を風になびかせ、髪の色と同じ闇の輝きを宿す彼の双眼は見る者に深い印象を与えた。

文武両道で卓越した剣の腕前を誇り、逞しく鍛えられた体と、まるで彫刻のように整った凛々しい顔立ち。

魏の国王である父・曹操の元、皇子として君臨するその姿にはまだ20代の若者ながらにして他を圧倒するような気品と高貴さが溢れ、王族として相応しい威厳と風格を兼ね備えていた。

それでいて曹丕が普通の皇子達と違うのは、彼が決して白馬の王子様という雰囲気ではなく、その髪や瞳の色と似てどこかダークでアンニュイな妖しさと色気を漂わせる、『闇の皇子』と呼ぶに相応しい退廃的なその風情。

常に冷たくクールな態度で他人に接し、普通の男達と違って女性に甘い眼差しや囁きを降らせる事のない素っ気なさとつれない言動。

そんな彼に女達が焦れに焦れて、どうか少しでいいから私を見て下さい、曹丕様の愛を恵んで下さい!と涙ながらに彼の足元に跪いてすがる女達を見下ろしながら、楽しそうに笑うその意地悪な態度の全てがサディスティックな魅力となって魏の女性達を虜にしていた。

そして、名無しのことも。

(曹丕)

その名前を心の中で呼ぶだけで、名無しの胸中にズキン、ズキンと切ない痛みが広がっていく。

魏城に入り、名無しが曹丕に仕えるようになって早数年。

最初は怖い人だ、冷たい人だと思っていたのに、そんな彼に惹かれてしまうようになったのはいつからだろう。

いつの間にか曹丕に愛≠ニいう感情を抱き、ご主人様とペットとでもいうような不思議な関係に陥ってしまっていた。

普通の男性のように、もっと優しくして欲しい、愛されたいとまでは願わない。

曹丕にとって重たく思われるような事を言って、彼に嫌われるような事はしたくない。

でも、もう少し。

叶うのであれば、曹丕ともっと仲良くなれるようになりたい。

せめて自分が傍にいても鬱陶しがられる事のない程度に、その瞳に映る事を許される程度には彼に興味を抱いて貰えるようになりたい。

(そんな人間になれたらいいな……)

だが、何と言っても曹丕は父親の曹操の血を色濃く受け継いでいるのか、親子二代揃った筋金入りのS男。

魏城のM女達の羨望の的であり、M女のキングオブカリスマだ。

そんな曹丕に気に入って貰えるようにするには具体的にどうすればいいのか、なんて名無しは全然分からない。

「……なかなかよく出来ているな。それほど時間がなかったはずだが、短期間で練ったにしてはよく考えられている方だ」

一通り目を通し終わった書類の内容を再度確認するようにして、曹丕が長い指先でパラパラと紙面をめくる。

「他に何か思う所はなかったか。今の規則で不十分な所とか、ここをもう少し変えた方が良くなると思う所があれば次回の議案に盛り込む事も考えてやろうと思うが」

歯切れは良いが、低く深みのある男の声が名無しの耳に届く。

しかし、徹夜明けで頭がぼんやりとしているせいか、曹丕の言葉は名無しの脳の表面を刺激するに留まり、彼の問いが奥深くまで入ってこない。

「でもドSだもんね……」
「……?」

ブツブツと、名無しの口から漏らされる呟きに、曹丕は『ん?』という感じで顔を上げた。

しかし、当の本人は曹丕の視線に全く気付いていない。

「やっぱり難しそうだなあ…。ひどいことばかり言ってくるし…意地悪だし……」
「誰が。何だって?」
「!!」

ギクリ。

体が跳ね上がるほどの衝撃というのは、この時のような事を言うのだろう。

弾かれたようにして顔を上げた名無しの視線の先で、酷く冷たい、鋭利な刃物のような男の双眼が瞬きもしないまますいっと細められる。


(えっ!?嘘っ!!もしかして聞かれてた!?)


普段なら、決してこんな事はしなかったはずなのに。

自分では全然その気はなかったのだが、徹夜明けで思考能力が著しく低下していた名無しの脳は心の中だけで呟く≠ニいう信号を出したつもりが独り言を言う≠ニいう信号に勝手に置き換えていたようだ。

その事に気付いた途端、真冬のオホーツク海に投げ出されたような冷気が名無しの全身を包み込む。

1.まず、勤務中に他事に気を取られているという事が良くない。

2.次に、それを他の人間に悟られてしまうという事も良くない。

3.それを上司との会話中、目の前でやってしまうという事が一段と良くない。

社会人として『仕事中にやってはいけないリスト』のトリプルアタックをしてしまった事実に気付き、名無しの顔面は青くなった。


〜名無し終了のお知らせ〜


そんな言葉が名無しの脳裏をよぎり、彼女の額に嫌な汗がジワリと浮かぶ。

普通にそんな事を本人の目の前で言ってしまうというだけでも怖いのに。

よりによって勤務中に、しかも曹丕の面前でしでかしてしまうだなんて、余計にまずい展開ではないか!


しっ……、しまった。


首になるどころの騒ぎではない。


殺される!!!!


「あっ…、あの…、ごめんなさい…っ。そ、曹丕…これはその…わ…わたし……っ!」

今更取り返しの付かない状況と、男の眼光の鋭さに怯え、名無しは自分でも情けないほどに言い訳じみた声を漏らしていた。

そんな名無しを、普段通り感情が読み取れない、無感動な曹丕の瞳が見る。


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