SS 【白黒世界】 あれはみんな、幻にしか過ぎなかったというのだろうか。 彼女と心が通じ合えたと思えた瞬間。互いに想い合っていると感じた瞬間。 その一つ一つが全部私の一方的な勘違いで、そう思っていたのが私一人しかいなかったというのなら、こんなに空しい事はない。こんなに惨めな事はない。 あの時の彼女の笑顔も私の名前を呼ぶ優しい声も、特別な意味を感じていたのは私だけ。 そんな哀しい記憶は全部、いっそ夢であってくれれば良かったのに。 そうすれば、あれは所詮夢の話だと笑い飛ばす事が出来た。 名無しに愛されたいと願う私が頭の中だけで思い描いた、ただの幻覚でしかなかったと思えるから。 それなのに、夢じゃなかったからこそ期待してしまう。 現実にあった出来事だからこそ、それは決して無意味な物ではなかったと思いたくなる。 彼女と過ごした多くの時間は名無しと私を繋ぐ確かな証拠であったと、信じたくなってしまうのに。 (私ではダメだった) 私は、名無しのパートナーに選ばれなかった。 こんなにも長い間名無しと一緒に過ごしてきたのに、最後まで彼女にとっての『特別な存在』になる事が出来なかった。 その事実をひしひしと実感すればする程に、失恋の苦しみと悲しみで私は胸が張り裂けそうになった。 哀しくて、辛い。切なくて、苦しい。 涙で視界が滲む。手足が震える。声が出せない。 知らず知らずのうちに、冷たい涙が頬を伝って流れ落ちた。 これから先、私の代わりに名無しの側にいる男性は彼=B 城内での噂通り名無しは彼に寄り添い、彼を見つめ、二人にしか分からない言葉で愛を交わし、沢山の思い出を作り上げながら、彼の隣で幸せそうに笑っているのだろう。 私に見せてくれた物よりもよっぽど特別で愛情に満ち溢れた、恋人同士でしか見る事の出来ない極上の微笑みを、彼の隣で浮かべるのだろう。 (そんなのは嫌だ) だが恋に破れた今、無力な私に何をする事が出来るというのだろう。 愛する女性が選んだ運命の相手に、どうして異を唱えることが出来るだろう? 大好きです、名無し どうかどうか、あの人と末永くお幸せに これは名無しが決めた事なのだ。彼女が望んだ事なのだ。 彼女の幸せを願うのは本心だ。でも、やっぱり上手く笑えない。 名無しの事が大好きだからこそ祝福しなくてはならないと思うのに、私はいつまで経ってもこの残酷な現実を認められずにいる。 好きだからこそ、名無しにはこの世で一番幸せになって欲しいと思う。 でも、だけど。 その幸せを与えられるのは自分だって。 他の誰よりも名無しの事が大好きで、彼女を幸せに出来るのは世界中でただ一人、この陸伯言しかいないって。 そんな思いを、彼女に振られた今もどこかで捨てきれずに抱いている自分がここにいるから。 (無理です、名無し) 愛する女性を諦めるなんて私には無理だった。 あなたへの想いを断ち切り、笑いながらあなたを見送るなんて器用な真似、私には到底不可能な事だった。 (それでもあなたの為になるというのなら────やってみましょう) それをあなたが望むなら。それがあなたの答えだと言うのなら。 それであなたが笑顔になってくれるなら、幸せになってくれるなら、私はそのように振る舞おうと思います。 そうして、名無し。私は崩壊していくのです。 あなたへの思いを必死で押さえつけながら、決して外に出さないようにひた隠しにし、作られた嘘の笑いを顔に貼り付けて平常心を装おうと努めた結果、私はどんどん壊れていく事だろう。 あなたと彼≠ェ二人で育む愛を間近で見せつけられていく度に、私の中から人として生きていく上での大切な何か≠ェ少しずつ削り取られ、私の心は暗黒の世界に堕ちていく。 もう何も見たくない。もう何も聞きたくない。 あなたが私以外の男性と愛を語り合い、幸せそうにしている光景なんて一秒だって視界に入れたくない。 あなたが他の男性と結ばれ、キスをして、セックスをして、結婚して、子供が生まれて、幸せな家庭を築いているという情報なんて、この先何一つこの耳に入れたくない。 そんな事を本気で強く願っているうちに、やがて未来の私は自己防衛の為に自らの意志で感覚を封じ込め、視力を失い、聴力を失い、最終的には何も感じられない無気力な存在になるだろう。 笑うことも泣くことも全て忘れ果てた、心を無くした虚ろな人形。 そうなってしまうのは、きっと愛しすぎたから。 もう今日の事は忘れたい。いっそあなたに関する記憶そのものを全てなくしてしまいたい。 そう思ってグチャグチャに塗りつぶして掻き消そうとしても消す事が出来ない、あなたへの深い愛故に。 私は名無しの事が好きだった。 いや、『だった』なんて過去形ではない。今でもずっと好きなままなのだ。 あなたへの想いは薔薇色の鎖となって、未来永劫私の心をあなたの元に縛り続ける。 過去の恋に囚われたままの人生。 報われない想いを抱きながら暗闇の世界に溶けていくのはとても辛く苦しいことだと思うのに、他ならぬあなたに与えられる痛みであればそれも含めて愛しいとすら私は思える。 さようなら、大好きな人。 さようなら、私の初恋。 寝ても覚めてもずっと思い続ける程に焦がれていた女性への恋は、実ることのないまま終わりを告げた。 暖かい木漏れ日も、美しい木々や花々も、楽しそうな小鳥達のさえずりも、透き通るような青い空も、もはや何も私の心を溶かしてはくれないだろう。 私の目の前に広がるのは、地の果てまで永遠に広がる荒廃した世界。 あなたといた時はあんなにも色鮮やかに見えた景色は彩りを失い、目に映る全ての物がモノクロームへと移り変わっていく。 ─────愛は死んだ。 ─END─ →後書き [TOP] ×
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