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【二人の秘め事】
 




昼食を取り終え、さあ午後からの仕事も頑張るぞと名無しが気合いを入れ直した13時頃。

それまで平穏無事にまったりと過ごしてきた名無しの執務室の空気が、ある人物の登場によって突然破られる。

「聞いてくれ名無しっ。もう本当にうんざりだ!」

バンッと大きな音を立てながら、名無しの部屋に続く扉を開いて中に入ってきた男性の正体は鍾会だった。

(あれっ。鍾会?……また何かあったのかな)

長い髪を後ろで一つに束ね、正面から見るとフワリと空気感を含んだ軽やかなクセのある短髪に見える髪型。

色素が薄めの茶色の瞳、人形のように整った美貌、キリッとした顔立ちのせいか一見きつく感じられる容貌と狡猾さを滲ませている眼差しが鍾会の特徴であった。

幼い頃より英才教育を受け続け、鍾家が誇る天才と呼ばれる程に学問にも剣技にも容姿にも秀でた若きエリートだが、それだけ恵まれた才能の持ち主であるという事が災いしたのか、高圧的で勝ち気、プライドが高い性格に育ってしまった鍾会は自分の理想と異なる状況に不平不満を抱きやすく、周囲と諍いを起こすことも度々あった。

魏城に入る前は誰がそんな鍾会のストッパー役になっていたのかは知らないが、ここ最近は荒ぶる鍾会を慰めたり、彼の愚痴を聞くのはもっぱら名無しの役目になっていた。

「どうしたの?鍾会。そんなに嫌そうな顔をして…。立ち話もなんだから、良かったら座って」
「ふんっ。あなたに言われるまでもなく、私は遠慮なく座るぞ!」

名無しに優しく促された鍾会はその辺にあった手頃な椅子を手に取ると、名無しの机の前まで持ってきて彼女と向かい合う形で着席した。

司馬昭といい、執務机を挟んだ名無しの正面は彼女に悩みを打ち明ける青年達の定番ポジションになっているようだ。

「今日2時から会議があるのだが、それに出るのが苦痛で仕方ない」
「今日の2時からって…なんだっけ。今年度の予算案の話?」
「そうだ。何が必要で何を追加するか、何を削るかという恒例のあれだ」
「そっか…。重要な内容なんだから仕方ない事だと思うけど、あれ、一旦始まると凄く議論が長引くよね。前なんて、話がまとまらなくて夜明けまで延々やっていた事があったし。大変な会議だよね」
「それもある。だが私が嫌なのは、お偉方の爺さん達と一緒に会議に出なければならない点だ。年を食っているというだけで偉そうにしている爺さん達のご機嫌を取らなければならないのも不愉快だし、古い考えにいつまでもしがみついている旧式の奴らと議論を闘わせなければならんというのも嫌で嫌で仕方ない」
「古い考え…。鍾会、何か酷い事でも言われたの?」

鍾会の身の上を案じ、心配そうな声で尋ねる名無しに、鍾会は心底ばかばかしそうに吐き捨てる。

「知るか。あいつら、魏に古くからいる重鎮達の意見はペコペコしながら聞くクセに、私のように新しく来た若者にはコロッと態度を変えて上から目線で説教をするのが好みのようだ。どうせ今までとのやり方をかえてここを削ると私が言い出せば猛反発してくるに決まっている!それが嫌なんだ!不愉快なんだ!」

だから予算案の会議になんか出たくないんだ、参加者に選ばれた時も断りたかったのに無理矢理参加させられたんだと鍾会は言う。

(うーん。最近会議に出たくない病≠ェ流行っているんだろうか)

ここからもう出たくない、という気持ちの表れのようにしっかりと椅子に腰を下ろして根付いてしまっている鍾会の姿を見て名無しは思う。

そう言えばついこの間司馬昭も同じような感じで突然ふらりと名無しの前に現れて、会議に行きたくないったら行きたくないと愚痴を漏らしていたような記憶がある。

兄の司馬師は弟と違っていつもと変わらない態度で黙々と職務に励んでいるようだが、先日名無しが司馬師の執務室を訪ねた際、彼の机の上に置かれていた小さなチョコレート菓子の包みを見付けた。

甘い物が苦手だと言っている司馬師の机にそんな物が置かれている事自体が名無しにとっては軽い衝撃だったが、その菓子袋に書かれていたキャッチコピーが余計に彼女の視線を誘う。


ストレス社会で闘うあなたに。


(……う〜ん……)


普段滅多な事では食べないチョコ菓子を一粒口に含みながら、名無しから受け取った書類を険しい顔で眺めていたこの時の司馬師の姿はとても印象的だった。

実はこのチョコレート菓子、司馬師だけでなくその前に夏侯覇が同じ物を食べていたのを名無しは目撃した事がある。それも、あっという間にたいらげていた。

この城の若い男性武将達は、現在みんな揃ってストレス社会と闘っている真っ最中なのだろうか?

「鍾会、ひょっとしてストレスでも溜まってる?」
「はあっ…!?私が!?何故そんな事を!!」

思わず声を荒げた鍾会の反応に、名無しの両目が大きく見開く。

「何故って、鍾会はすごく責任感の強い人だから。きっと予算案の会議に出なければならなくなった以上、相当重圧を感じているんじゃないかと思って」

鍾会と言えば元来生真面目な性格で勤勉、自らを高める為の努力は惜しまぬ努力家で勝ち気でプライドが高いエリートというイメージがあるが、その反面、非常にナーバスな心の持ち主でもあった。

同じ勝ち気でプライドが高いグループでも、曹丕や司馬懿と鍾会はその辺りでキャラクターの質が異なる。

他者の意見など全く気にしていないように見えて、案外人目を気にするデリケートな所のある鍾会と、他人の目を気にせず鉄の心を持つ曹丕や司馬懿。思うに、彼らの一番大きな違いはここにある。

そういった自分の脆い部分を隠す為に普段は強気な発言を多用しているが、その実は繊細で傷付きやすい美青年。それが鍾会という人物像ではないかと思った名無しはそんな気持ちを鍾会に告げた。

「鍾会は完璧主義だから、いつもみたいに寝る間も惜しんで緻密な案を練ってくれたんじゃないかと思うの」
「……。」
「それだけ時間と手間暇をかけた渾身の内容を、自分の事をあまりよく思ってくれていなくて、いつも議論になる人と同じ場所で提出しなければならないとしたら、私だったら『また何か言われちゃうのかな』『こんなに一生懸命頑張って考えた内容なのに、発表した直後あちこちから一杯反論が来たらどうしよう』って心配になっちゃうかも。考えるだけで憂鬱だよ。仕事だから仕方ないとは分かっているけど、やっぱりプレッシャーはプレッシャーだもの。……そう思って」

真面目で繊細な人ほど周囲からのプレッシャーに弱く、また、そんな周囲の期待に応えなければという使命感も強く、結果的にストレスを溜めやすい。


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