始まる、と肌で感じた。ピリピリと刺すような空気と、雨が降る前の湿気が混じり合い、一種独特の雰囲気を作りだしている。精神統一するために閉じていた目を開いた。見上げた先の横顔が見据える物は何なのだろう。家康の首か、それとも…

「もうすぐだ」

「はい」

「不思議だ。ここ一番の大戦だというのに実に穏やかなんだ」

「珍しいですね。いつもなら気が高ぶられておりますのに」

「あぁ、本当。自分でも驚いてるよ」

戦は人を変える。どんなに立派な信念を抱いた者でも一度開戦となれば理性を失い、獣になる。だが、今の幸村にはそんな様子はない。まるで真冬の湖畔のように澄み切っている。それは間者がやって来て密書を渡しても変わらなかった。敵方は十五万の軍勢だ、と告げる。

「十五万…」

「対する我らは僅か五万…途方もないな」

弱気な言葉とは裏腹にからりと笑っている。動じてないし焦っても、絶望さえしていないようだ。数々の戦を乗り越えてきたという自信がそうさせているのだろうか。恐くないのですか?と問えば今更だろ、と返されそれもそうだ、と納得する。兵力の差は勿論、外堀ばかりか内堀まで埋められてしまった大阪城は裸同然。無敵だった真田丸も取り壊されてしまった。もはや先は見えている。

「そういう名前は恐ろしくないのか?」

「恐怖は感じません」

「では、後悔は?お前にはいくつもの選択肢があっただろう」

徳川方である信幸は名前を可愛がっていたのだから、彼の元へ身を寄せることも出来た。徳川も豊臣も関係のない場所で静かに生活することも可能だった。それでも彼女が選んだのはもっとも過酷な、幸村についていく道だ。

「私は何があっても幸村様お傍を離れたりはしません」

「それは…家臣としてか?」

「はい。ですか、女として貴方様を支えたいという気持ちもあります」

「………」

「幸村様?」

「やはり、そなたは…私の惚れた女子だ」

幸村の唐突すぎる言葉に戦場だというのも忘れて頬を染める。照れて、あたふたとする名前が愛おしい。いつまでも見ていたいと思った。

「時々考えるんだ」

自分に嘘をつけたなら、もっと上手に立ち回ることが出来たなら。未来は変わり生き長がらえたはず。だけど、私の隣にお前はいなかっただろう。私が私の志を貫いたからこそ、名前。お前はついてきてくれたんだな。

不意に幸村が名前を引き寄せた。肩口に顔を埋める。まるで甘えるような仕種に名前は瞠目する。


「お前がいてくれて良かった」


幸村の独り言だったのかもしれない。それぐらい小さな声だった。けど、名前にははっきりと聞こえた。

どんな逆風にも立ち向かい真っ直ぐ生きるこの人と共に戦いたかったからついてきた。己の命を捧げてもいいと思ってる。

「私も、幸村にお仕えすることが出来て幸せでした」

泣きだしそうになってそれを隠すために強く抱き着いた。甲冑越しのせいで伝わらぬ体温がもどかしい。諦めたつもりはない。最期まで勝つために戦う。けど、終焉がすぐ傍まで迫っているのもわかっている。


遠くで、鬨の声が上がった。


「ゆくぞ。狙うは家康の首ただ一つ」

「何処までお供いたします」

「行き先が地獄でも?」

「無論」

「では頼んだ」

「はい」

それぞれの得物を手にすると愛馬に飛び乗った。目配せして微笑みあうと馬腹を蹴って走り出す。


遥か彼方へ消え行く二つの背中は凜としていた。






(ただ、それだけだった)










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お題 不在証明様より
「愛したい尽くしたい守りたい」使用



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