この感情に名前をつけて立ち止まるほど、愚かではない。
政務の疲れからか、それともただの気紛れか。元就は部屋の前に立っていた。許可も取らずに襖を開けたが怒られはしない。なぜなら部屋の主である名前はもうこの世にはいないからだ。先の戦いで隊長となり小一隊を率いて囮になった。駒として立派に役目を終え陣地に戻ってきたのは亡骸としてだった。
当たり前だが部屋の中には誰もいない。生前からそうだったのか生活感があまりない。あるのは大きめの葛籠と文台。文台の上には書物が数冊…と、文らしきもの。元就は眉を顰めると部屋のなかに入り文を手にした。
『最初に手に取った人が読んでください』
変な文だった。裏返してみるが何も書いてない。最初に手に取った人…とは自分でいいのだろうか?すでに誰かが読んでいる可能性もある。
「……………」
文を開いた。元就にとって既に誰かが読んでいるかもしれない、ということはどうでもよかった。
文を読んでいただきありがとうございます。この文が貴方様の手の中にあるということは、すでに私は生きてはいないでしょう。文は自室に置いてきましたので貴方様は城の者か、もしかしたら私の友かもしれませんね。
武人としてこんな文を遺すのは女々しいことだとわかっています。ですが私は自分の思いを形にして遺しておきたかったのです。私は元就様に仕えたことを後悔していません。むしろ今生の喜びと思っております。あの方は私に大役を与えてくださいました。それが駒としてでも女、男関係なしに使ってくれたことが嬉しかったのです。
元就様は非情な人間だと言われますが、私はそれでいいと思っております。あの方は一国の主。そんな方が戦で散っていく者達にたいして一々かまけていればそれこそ国が滅びてしまいます。ですから、あの冷酷さが必要なのです。
もし貴方様が元就様によい感情を持っていないのであれば、どうか見方を変えてみてください。あれがきっとあの方なりの優しさなのですから。
一つ残念なことがあるとしたらこれから先、元就様に尽くせないことです。ですが私は天…いえ散々人を斬ってきたのですから行き先は地獄でしょう。そこから私は毛利家と国の繁栄、そしてこの文を読んでくださった貴方様の幸せを祈ってます。
文はそれで終わっていた。これではほぼ我に宛てた文ではないか。ならば最初から我宛てに書け。それにこの文面はなんだ。お前ごときに我の何がわかるんだ、我の何が…
そう、罵ってやりたくても本人がどこにもいない。もう、どこにもいないのだ。
囮になれと告げたときから出陣する間際まで涼やかな顔をしていた名前を思い出す。思えば出会ったときから彼女は自分を慕っていた。
「馬鹿者が」
何かを掻き消すかのように深く息を吐く。文を折り畳み懐にしまうと静かに部屋から退出した。
元就には大切な文を入れておく文箱がある。あの文はそこにしまってあった。文がそこにあることも、それが何を意味しているのかも…知る人間は誰もいない。
宛名のない手紙
(本当は貴方様に届けばいいと思っておりました)
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時々文箱から文を引っ張りだしては「行ってまいります元就様」と笑った名前を思い出す。一抹の淋しさを抱きながら。