ああまたやってしまった。 丸く切り取られた空を見上げ溜息をひとつ。身体のあちこちが鈍く痛むし、制服は泥に汚れている。 いつものことと言ってしまえばそれまでだけれど、六年にもなってこう毎度落とし穴に落ちる自分は何なのだろうと自己嫌悪にならないわけでもない。 溜息をひとつ零し、伊作はその穴から這い出した。 戦場の喧騒からは離れているとはいえ、対立しあう城同士のちょうど中間地点である。お互いに相手を警戒し罠のひとつふたつ設けてもいるだろう。それが予測できても、不測の事態に見舞われるのが不運委員たる所以である。 「でも、さすがに飽きてきたっていうか…たまには何にも無く平穏に実習を終えたいというか…」 不運とは飽きる飽きないというものでもないと思うが、周りに誰もいない気安さでついつい漏らした独り言は、しんと静まる木立の中に消えてなくなると思われた、のだが。 「君は相変わらずだねえ」 突如降ってきた声に、伊作はハッと顔を上げ周囲を見回した。 同じく実習に参加している級友たちでは勿論無い。合流地点はまだ先であるし、そもそも級友たちの声でもない。 かといって教師たちのそれでもなく、声が現れた方向に向き直ると、伊作は懐に忍ばせていた苦無を構えた。 「んー…、五十点、てところかな?反応がちょっと鈍い」 どこかやる気の無い声と共に、ふっと黒が現れる。長身の体躯とただひとつ覗く右目。その男を、伊作は知っていた。 「あ、あなたは…!ちょっとこなもんさん!」 がくり、と男は肩を落とした。 「……雑渡昆奈門だ。ちなみに言っておくけど、タソガレドキ軍、忍組頭だよ」 「あ、そうでしたね。すみません」 「いや……」 ふとした縁で知り合ったプロ忍者は、「久しぶりだね」と構えを解いた伊作に手を振って見せた。 「お久しぶりです」 「そうだね。何、実習かい」 「ええ、まあ」 そんなところです、と答えながらも伊作はすばやく今回の実習地でもあるこの合戦の対立図を思い浮かべた。 タソガレドキは関係なかったはずだ。しかし組頭自ら赴いているということは、一枚噛んでいるということなのだろうか? そんな伊作の思案を知って知らずか、雑渡はひとり納得したように頷いた。 「ああ、それでか」 「?」 「君と同じ制服を見かけたよ」 「僕と?」 それでちょっと気になって見に来たんだがね。 「こちらの方に向かっていたから、もう直現れるかもしれないな」 雑渡の言葉に、伊作は顔を上げた。 空を仰げば太陽が中天を過ぎ、僅かに西に傾いていた。しまった、と思ったのが顔に出ていたのだろう、雑渡は然したる興味も伺えない声音であるが「落ち合う時間でも過ぎてしまったかい」と訊ねてきた。 沈黙は肯定だ。 正午に、と取り決めて散った面々は、きっと既に集合地点に集まっているだろう。雑渡の言葉を信じるならば、現れない伊作を案じて探してくれているに違いない。 「す、すみません。僕はこれで」 こんなところでのんびり立ち話をしている場合ではない。 失礼します、と慌てて踵を返そうとする伊作に、雑渡は「まあまあ」と肩を押さえた。 「そう慌てない。もう遅いみたいだし」 「え?」 遅いとはどういうことか。目を瞬かせ、雑渡を見上げた伊作の耳に、風に紛れる矢羽音の音が届く。 自分を呼ぶ声が聞こえると思えば、がさり、と枝が揺れた。はらはらと舞い落ちる木の葉と共に、小さな影が滑り落ちてくる。 「伊作!どこ!?」 「朔!ここだよ!」 現れた級友の名を呼べば、小柄な友人は伊作の元へ駆け寄ってくる。今回の実習は元々、それほど危険なものではない。心配性の彼女にしてはさほど不安の色が見られないのはその為だろう。 それでも慌てて駆けつけてくれたのだろうということはわかっていたので、安心させるように伊作は笑った。朔もまた、ホッとしたような表情を浮かべたが、次の瞬間、その顔が不自然に固まった。 「大丈夫だ……った……ってえ?」 「朔?」 どうかしたのかと伊作は首を傾げる。そして朔の視線は、自分ではなく自分の隣へ向かってることに気付いた。 隣?何かあったっけ?隣…。…あ! 「あ、あのね朔。これには事情が…って言ってもさっきばったり会っただけでね?僕はほら、大丈夫だから!ね?」 朔は文次郎ほど忍らしさに拘っているわけでも留三郎ほど血の気が多いわけでもない。けれど、敵か味方かあやふやな城の、それも忍組頭が居合わせればどう思うか。 伊作はとりなすようにあわあわと言葉を重ねた。 しかし伊作の心配は杞憂に終わる事となる。 「な、何してるんですかこんなところで…」 「え?」 間違いなく伊作ではなく、朔は雑渡に向けて口を開いた。 まっすぐ雑渡を見上げ、ことりと首を傾げる。その姿に警戒心というものは窺えない。 あれ?この二人にも面識があったのかな? 事態を飲み込めない伊作を余所に、雑渡は気安い口調で応えた。 「ん?仕事だよ仕事」 これでも色々忙しい身なんでね。 「そりゃ一国の忍組頭が暇ならそれはそれで問題じゃないんですか?」 「まあねえ。お陰でお前に会いに行く時間も取れなくてね。……久しぶりだね、朔」 「あ、はい。お久しぶりです」 雑渡がおもむろに、朔の頭に手を載せた。頭巾の上からだが、頭を撫でられて朔がくすぐったそうに笑う。 「えー…と…あの、お取り込み中すみません」 「へ?」 「ん?」 思わず挙手で声を掛けた伊作に、朔と雑渡が同時に振り返った。 「えー…その、よくわからないんですが、二人は知り合いだったんですか?」 困惑気味の伊作の声に、眉を上げたのは朔だった。 「あれ、私言ってなかったっけ、そういえば」 「何だい。お前、もしかして言ってなかったのか?」 「あー、そうみたいですねー。あはは…」 「言って?何を?」 「うん、あのね、この人は――」 「朔!伊作はいたか!」 何事かを言いさした朔の声を遮り割って入った新しい声に、その場の視線が向かう。 留三郎を筆頭に、次々現れる級友たち。その顔が、朔と伊作。二人の背後に佇む男を認めた瞬間に大なり小なり強張りを見せる。 「お前は…」 「タソガレドキの忍組頭…ッ!」 ギリ、と歯を噛み締める文次郎の空気が、殺気を帯びる。隣に立つ留三郎も、同調するように視線を険しくする。 「ちょっと、二人とも!」 落ち着けと声を上げる伊作を通り越して、二人の視線は雑渡へと集中していた。 まずい。これでは一触即発とまではいかずとも勝負を挑むくらいはしかねない。今はまだ、小平太が大人しくしているからいいものの、これでアイツまでその気になったら止められない。 自分たちは実習中だ。授業中にも拘らず、よりにもよってプロの忍者に喧嘩を売るなどあってはならない。 何とかしなければ、と焦り始めた伊作を余所に、ひどくのんびりした声が隣から上がった。 「留三郎。伊作は大丈夫みたいだよー」 「…そうらしいな…」 ひとり状況を把握していないように朔は、きりきりと張り詰めていくばかりの空気に眉を寄せた。 「どうしたのさ、皆」 「どうもこうもねぇだろ」 低く呻るような文次郎に、それまで静観していた雑渡が一歩踏み出した。 ざり、と土を踏む音がする。ただそれだけのことであるが、忍たま六年生たちは各々構えを取っていく。 「やれやれ、私も随分嫌われたものだね?」 言葉の割には楽しげな声だった。 「そんなに睨まれるようなことをした覚えはないんだがねえ」 困った困った。 まるで困った様子も無いくせにしゃあしゃあとそんなことを嘯いて、タソガレドキ軍忍組頭は、ふとただひとり不思議そうに自分を振り仰いでいる朔へ目を向けた。 「?何ですか?」 「ん?いや、せっかくだから少しだけ期待に応えてみようかと思って」 「へ?」 ぱちり。朔が目を瞬かせる。まさにその一瞬だった。雑渡がすっと朔の脇に手を差し入れた。かと思えば、小さな身体が宙に浮く。 「おわ!」 間抜けな叫び声と共に朔を担ぎ上げ、雑渡は地を蹴った。 「朔!」 「ちょっとこの子を借りるよ。じゃあね、忍たま六年生」 「ま、待て!!」 制止など無意味とばかりに言うが早いか、黒の装束は森の奥へと煙のように姿を消した。 |