六年長屋から五年長屋まではそう遠くはない。物理的な距離という話ではという注釈が付くが。
ぎゃあぎゃあと騒がしい一室の前で、二人は足を止めた。勿論ここに来るに当たって気配も足音も立っている。
探るように耳をそばだてると、複数の声が聞こえた。
小平太はひいふうみい、と指を折り数える。

「…六人、か」
「予想通りだなあ」

外れる気もしていなかったけどな、と独り言のように呟いて不破・鉢屋と書かれた木札を確かめるように見遣り、それから小平太が障子に手をかけた。

「いくぞ、長次」
「……ああ」

長次が頷き終えるより先に、殊更大きな音を立てて障子は引き開けられた。
それまでの騒々しさをかき消すようなその音に、室内にいた全員が、一斉に入り口を見遣った。ある者は目を丸くして、またある者はめんどくさそうに、そしてまたある者は興味も無さそうに。
青紫の制服の集団が、それぞれに微妙な表情をして闖入者を見る。

膠着状態、というべきか。沈黙が、落ちる。深緑と、青紫。沈黙はその二つにより妙な緊張感へと進化しようとしていた。
が。
場にそぐわない間の抜けた声がそれをあっさり霧散させた。

「あれ、小平太?」

青紫の固まりに隠されるようにして、探し人がそこにいた。

「長次も。どうしたのさ二人揃って」

きょとりと目を瞬かせる朔にきっと空気を読もうという気はない。というかこの微妙な空気にすら気付いていないだろうな、と長次はひっそりと思った。
普段は六年ろ組の学級委員長として、よく言えば個性的な級友たちを四苦八苦しながらもまとめ上げているというのに、その肩書きが外れた途端この友人は変に鈍感な――というかどうにもすっとぼけた本来の性質を露呈させる。

それが悪いというわけではないが、時には罪作りなものであることを自覚して欲しいものだ。しかしまさか当人に直接的に改善要求するわけにもいかない。言ったところで朔が首を傾げて「どういう意味?」と逆に問い返されるのが関の山である。六年間、長次を筆頭に彼らを密かに少しだけ悩ませてきたこの問題に答えが出る日は来るのだろうか。当面はない気がする。
傍目にはまるで変化のない表情の下で長次がそんなことを思っているなどとは、おそらく欠片も想像していないだろう朔は、「え、何?どうしたの?」と重ねて訊ねてくる。

「先輩って時々変にマイペースですよねえ」
「え、何それどういう意味だい」

若干呆れたような声を上げたのは朔の右脇に張り付いていた尾浜勘右衛門である。
まったくその通りだと、長次が胸の内で頷いている等と勿論朔は知る由もない。

「それ言うなよ勘右衛門。空気を読まないのが先輩だろ?」
「先輩、八っちゃんに言われたらお終いですよ、色々」
「……兵助。あのさ、八左は私に失礼だけどお前も大概八左に失礼だからね?失礼が変に輪になって回ってるからね」

突っ込みたいのか窘めたいのかいまひとつわからないことを言いながら、朔が溜息を吐く。そして話を戻すように朔は戸口に立ったままの友人二人を見上げた。

「で、二人ともどうしたの。この子らに用?」
「いや、朔を探していたんだ」
「私を?」

何?と小首を傾げ、朔が立ち上がろうとするが、その動きは周囲に張り付いた引っ付き虫たちによってあっさりと阻まれた。

「……三郎、背中が重いんだけど。あとい組コンビ、両脇が重い。ていうか何か全体的に重い。何お前たちどうしたの」

がっちり、と拘束するように張り付いた後輩たちに、一体何だと朔が不思議そうな顔をする。
その様を眺めていた小平太が、不意に笑みを浮かべた。
それに気付いたのはおそらく長次だけだろう。他の面々が気付くより先に、小平太が動く。親犬に張り付く仔犬よろしく固まりと化していた後輩たちの間からすぽーんと朔の身体を引き抜いた。

「……大根のようだな」
「私が!?私が大根なのか長次!」

図書委員長の微妙すぎる喩えに、引っこ抜かれた勢いのまま小平太の肩に担ぎ上げられた朔が抗議の声を上げる。

「なら蕪ならどうだ?」

的外れな妥協案を体育委員長が提示すれば、学級委員(略)長はこれまた的外れな答えを返した。

「蕪か…うーんそれなら大根の方が好きかな…」
「私も蕪より大根の方が好きだぞ?」
「いや小平太は大根じゃなくて役としては百姓でしょうが」
「……先輩方何の話をしているんですか」

至極まっとうな突っ込みである。同じ顔の二人が並んで溜息を吐いている。一方は困ったように、もう一方は半眼で。

「いや待て三郎、雷蔵。お前らも何落ち着いてんだよ!」
「煩い八左ヱ門。耳元で叫ぶなよ」
「煩いって何。三郎お前煩いって!」

ぎゃんぎゃん喚く八左ヱ門に、三郎が距離を取る様にひらひらと手を振る。軽くあしらうようなその仕草に、八左ヱ門がますます騒ぐ。

「あーもう、二人とも止めなさい」

小平太の肩から滑り降りると、朔は窘めるように二人の間に割って入った。

「そんなことで揉めるんじゃないよ!」

奪われた端から自ら帰還した朔に、再度じゃれつくように勘右衛門が擦り寄る。朔の腕に己のそれを絡ませて機嫌よく笑う勘右衛門が、六年ふたりへと顔を向けた。

「で、そもそもお揃いでどうされたんですか?先輩方」

にこにこと笑いながら今更白々しく訊ねてくる後輩は、何だか年々素直さという意味での可愛さが薄れてきている気がする。

「だからさっきから言ってるだろう?朔に用があるから来たんだ、迎えに」

朔の手を取ろうと小平太が一歩前に出れば、それを阻むように先ほどまで揉めていたはずの三郎と八左ヱ門が揃って前に出た。

「……なるほど、あれは哀車の術、か」
「ちょっと違いますけど、似たようなものですかね」

応えたのは、苦笑に近い笑みを浮かべた委員会を同じくする後輩だ。

「朔先輩って、何やかんやで後輩には甘いでしょう?」

にっこりと笑う雷蔵に溜息を吐く。見抜かれているぞ、朔。
ひとつとはいえ後輩に上手く転がされる形になっていることを果たしてあいつは気付いているのだろうか。いや、いないだろうな…。
今度それとなく忠告しておくべきだろうか。長次がそんなことを思っている間にも、小平太と五年生たちとで話はそれとなく進んでいく。

「迎えに、ってちょっと待ってください七松先輩」
「何だ?鉢屋」
「今日の先約は我々です。後からそんなことを言われましても」

困るんですがと、まるで困っていない顔でそんなことを口にする。

「ねえ先輩。朔先輩」

これまた先ほどと同じように、勘右衛門とは逆の腕に擦り寄るのは兵助である。

「先輩、俺たちと約束しましたよね?今日は俺たちと一緒にいてくれるって」

図体はとっくに朔よりも大きくなったくせに、こんな時ばかり背を屈めて朔の顔を覗き込む。甘えるようなその仕草は、後輩らしさという点では十分に威力を発揮していた。
仮に自分たちがそんなことをされても(というかきっと彼らも自分たちにはしないだろうが)、多分隠れていない裏しか考えないが、後輩に甘い朔はそのままに受け取ったようだった。

「んー…そうなんだよねえ。…小平太」
「ん?何だ?」
「用って急ぎかい?」

そうでないならまた後では駄目だろうか?

「……朔」

申し訳無さそうに眉尻を下げるその後ろで、後輩たちがしたり顔でこちらを見ているのだが。

「どうしたの、長次」

不思議そうな顔をする友人に、果たして自分は真実を教えてやるべきなのだろうか。
委員会を同じくする後輩よろしく悶々と悩み始めた長次を余所に、小平太は後輩たちを気にするでもなく朔の問いに対して問いで返した。

「急ぎなら、朔は私たちと来るか?」
「え?……そりゃまあ……。わざわざ呼びに来るってことはそれなりに重要なんだろうし…」
「なら、急ぎだ」
「……ならって何だい。ならって」

呆れ半分、胡乱気な目を向ける朔の肩に、小平太は真面目な顔を作りぽんと両手を置いた。

「朔、文次郎がな」
「文次郎?」

突如飛び出した名に、朔は目を瞬かせる。これまでの話と一体何の関係があるというのか。問いかけるその視線に、小平太は唇を吊り上げこう言った。

「文次郎のヤツが苛々してるんだ」

「は?文次郎が?」と首を捻り、しかしさすがに長い付き合いである。朔は小平太の言わんとする意味を悟ったように苦笑した。

「…あー…。まあ予算会議が近いからねえ。何だっけ、三徹って言ってたかな」

アイツそろそろ倒れるんじゃない?と溜息交じりに朔が零す。

「休むってことを知らないからなあ。伊作と、薬湯でも煎じてやろうかって話してたんだけどさ」
「それもいいな。伊作とお前の薬湯なんて何かとびきり苦そうだし」
「…さらっと失礼だな。甘くもできるよ」

唇を尖らせる朔の幼い仕草に、小平太が笑う。

「そうだな、疲れたときには甘いものが一番だと思うんだ」
「そうだねえ。頭を使うと糖分が不足するしね」
「それで、文次郎の為に私たちで一肌脱ごうかと思ったんだ」

朔がぱちぱちと目を瞬かせる。話の流れを振り返るように、少し首を傾げる。

「それって、甘いものを用意してあげるってこと?」
「ああ。なあ、長次?」
「……ああ」

何だか当初の目的とは随分と逸れている気がする。そうは思うが、ここは小平太に任せてみるかと話を合わせてやる。これもまた策の内、だ。真面目腐った顔で頷く長次に、朔は考える素振りを見せる。

「まあ、そりゃ確かに急ぎと言えばそうかもしれないけど……」
「朔にも手伝ってもらおうかと思ったんだけど、どうだ?」
「うーん…わかった」
「え、先輩!?」

思いがけない展開に遭遇したように、兵助が声を上げる。

「先輩方と行かれるんですか?」

必殺後輩の視線、も今度はそれほどの効果を見せない。

「ごめんね。また今度、埋め合わせはするよ。そうだな、予算会議が終わってからでもいいかい?」

勝った、と思ったのは一体誰か。こうと決めた彼女に、後輩たちが「でも」と反論し縋ることができないことを六年二人は知っている。

「で、何を用意するんだい?」
「……アケビだ」
「アケビ?…って採りに行くの?じゃあ外出届け貰ってこないと。私、先生のところに行ってくるよ」
「ああ、頼んだ」

パタパタと軽い足音が駆け去っていく。こんなはずではなかったのにという空気と、してやったりという空気が入り混じる微妙な空間だけが後には残されていた。


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