帰る場所

先輩、と彼女を呼ぶ自分の声がひどく甘えたものである自覚はあった。けれどそれがどうした。

「先輩、先輩。朔先輩」
「何だい三郎」

緑の制服のその人は、きっと柔らかい笑みを浮かべ私を見つめているだろう。けれど朔先輩の腰に抱きつき、腹に顔を埋める私には、笑みを含んだ声しか聞こえない。
ぎゅうぎゅうと音がしそうな程にしがみ付く私を離そうともせず、先輩は「何だい、三郎」と繰り返す。
私の背中を撫でる手の温もりが、布を通してじんわりと染み込むように伝わってくる。
それが心地良くて、私はますます彼女に擦り寄った。
雷蔵とハチは委員会。兵助と勘ちゃんは学園長のお使いで外へ出ている。
だからこうして、私は彼女を独占できるのだ。
だというのに。

「……早く皆が来るといいねえ」

彼女はそんなことを口にする。

「先輩は、私と二人きりというのがお気に召さないのですか」

拗ねたような口調。少しだけ顔を上げ、目線を向ければ彼女は小首を傾げるような仕草を見せた。

「いいや?」

そんなことがあるはずないだろう、と雄弁に語る表情が嬉しい。嬉しい。嬉しい。

「お前と二人というのは、とても久しぶりだね」
「そうですよ」

下級生の頃、「三郎、三郎」とこの先輩が何かにつけて構ってくれていた事を思い出す。使いに出れば土産を買ってきてくれたし、珍しい話を聞かせてくれた。かと思えば、他愛ない私の話を飽きもせずにこにこと聞いてくれていた。朔先輩は、私の初めての先輩で、私だけの先輩だった。

「ほんとに久しぶりなんですから」

少し不貞腐れたような私の声に、先輩は目を細め、そして髪を梳くように私の頭を撫でる。

「先輩は、雷蔵の髪が好きですね」
「ん?んー、まあ、触り心地がいいからねえ。相変わらず、忠実な再現度だね」
「当然です」

双忍と呼ばれるのは伊達ではない。穏やかなこの顔の本来の持ち主を思い浮かべ、私は小さく胸を張った。

「でも」
「……はい?」

少し潜められた先輩の声に、何か問題でもあったろうかと視線で問う。

「でも、私はお前の髪も好きだよ」
「…………そうですか」

思わず先輩にしがみ付く腕に力を込めてしまった。私はきっと何とも言い難い表情をしているのだろう。その証拠に、先輩がくすくす笑う。
先輩は、頭を撫でる手を止めようとはしない。その動きが春の陽気と相まって、思わず欠伸がこぼれた。
何だかとても眠い。
離れる事のない先輩の温もりと匂いがひどく心地良い。けれど、眠ってしまうことが勿体無いように思えて私は何とか睡魔を退けようと試みた。
所詮無駄な抵抗だとはわかっていたけれど。
先輩の手はいつまでも優しくて、小さく聞こえる歌声が私を眠りへと誘っていく。
ハチ辺りに見られたら「ずりぃ!」とごねられるだろうな、この状況は。
曖昧になる意識の中で、ぼんやりとそんなことを思い、小さく笑った。
「三郎?」と不思議そうな朔先輩の声が聞こえた気がしたけれど、重い瞼を持ち上げる気にはならなくて、私は先輩の腹にもう一度顔を埋めた。今日は実習があったのだろうか。薬草と、少しの火薬の匂いがした。

私の先輩。今は、私だけの先輩。

子どものように甘える私を許してくれるひと。
ああそういえば、最初は遠慮していた雷蔵が、私と先輩と饅頭を食べるようになったのは、いつからだったか。
そこにハチが加わり、兵助が増え、勘ちゃんが顔を覗かせて。
先輩は私だけの先輩ではなくなったけれど、不思議と悲しくはなかった。
饅頭がなくなる頃に嵐のように突っ込んできて、先輩の手をぐいぐい引っ張って連れ去ってしまう七松先輩と困ったようでいて嬉しそうでもある朔先輩に、五人で並んで手を振ることがいつの間にか常になった。
それが私の日常になった。
私の周りは、賑やかになった。

「……ねえ三郎。私はね、欲張りなんだよ」

あの子達が笑っていてくれると嬉しい。三郎が、笑っていてくれるととても嬉しい。
だからこうして、帰りを待ちわびてしまうのさ。
夢現に、風に乗り流されていく柔らかな声を聞いた。



帰る場所。

(20110428)

いつかの1コマ。

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