潮江 「何、文次郎。眠いの?」 「…………あ?」 ぽんと落ちてきた声に振り返れば、いつの間にそこにいたのか腐れ縁の友人が小首を傾げている。 「人相が二割増しで悪いよ」 けらけらと笑いながらさらりと失礼なことを口走り、「どうせまた徹夜で予算案でも組んでたんでしょう」と俺の睡眠不足の理由を言い当てる。 「……人相が悪くて悪かったな」 反論の気力すら勿体なくておざなりに返した俺に、朔は何を思ったのか制服のポケットをごそごそやり始める。 「保健室に行って寝かせてもらったら?新野先生は出張だけど、多分いさっくんがいるよ」 「バカタレ。もうすぐ昼休みも終わるだろ」 「妙なところで真面目だよね、文ちゃん」 「文ちゃん言うな」 予算案を徹夜で思索して、授業をさぼって仮眠をとる……本末転倒もいいところだ。 「五限は何だ、数学か」 「それは質問?それとも確認?」 「ああ、数学か。数学だな。数学か、ははははは」 「仙蔵―。文次郎が相当やばいと思うんだけど」 「何だ、いつもと大差ないだろう。――ほら、生物でよかったな?」 席を外していた仙蔵が教科書を片手に戻って来る。朔は「ありがとう」とそれを受け取りながら、少し眉を寄せた。 「いやあるでしょう。すごく遠い目で笑ってるんだけど。怖いよこのひと」 「どこまで行ってもついて回る数字という己の定めと戦っているんだ。そっとしておいてやれ」 おい待て仙蔵。誰が数字と戦い続ける定めだ。冗談じゃない。 「お前ら好き勝手言いやがって」 「あ、我に返った。お帰り現実へ」 「帰るも何も旅立っとらんわ!」 「っ痛!」 べしりと白い額を弾けば、朔はその場所を押さえて呻く。 「ちょ、手加減忘れてるよ…」 「あー…悪い」 「仕方ないから許してあげるけど、他の女の子にはちゃんと加減した方がいいよ」 「心配するな。文次郎が女子生徒と気安く口が利けるものか」 鼻で笑った仙蔵は、そう言いつつ朔の額を見て小平太たちがうるさかろうなとぼやく。 「え、私の心配はしてくれないの」 「許せ、私はわが身が可愛いのでな」 「真顔で冗談言うのやめてくれないか。他の人が本気にするから」 たとえ本気にしたとしても仙蔵の人間性が疑われるだけで自分には関わりなかろうに、朔が顔を顰めた。 「それよりお前、戻らなくていいのか?もうすぐ予鈴が鳴るだろ」 時計を指せば朔の視線がそれを追い、それから腰を浮かせた。 「ほんとだ。そろそろ戻らないと。仙蔵、教科書ありがとう」 「ああ」 朔が立ち上がるのと入れ替わりに、仙蔵がやわく笑って己の席へと収まる。 ぼんやりとその動きを眺めていた俺の前に、ぽとりと何かが落とされた。 「?」 「それあげるよ」 よくよく見れば、薄荷味の飴玉がふたつ机の上に転がっている。 「少しは眠気も覚めるんじゃない?」 それだけを言い残して、朔は自分の教室へと戻っていった。 俺の視界の端で、膝丈のスカートが揺れた。 「……あいつ、そういや女だったな」 「ん?どうした、文次郎」 「…………は?」 「は?」 袋を破り飴玉を取り出しながら、仙蔵が聞き返す。その時俺は、自分の零した呟きの意味を頭で初めて理解し、そして仙蔵に拾われるというある意味最悪の失態を回避できた幸運を知った。 「…………なんでもねぇよ」 ごまかすように仙蔵に背を向け、俺もまた飴玉を口に放り込む。 ああなんてことだ。これもすべて、この眠気のせいに違いない。 そう己を納得させて、俺はひっそりとため息を零した。 知ったところでどうにもならないさ (20131021) [しおりを挟む] ×
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