直前の話。

「チョコが欲しい」
「は?」

頬杖をつき物思いに耽っていたかと思えば飛び出した唐突なその一言に、パンの袋を開けようとしていた手を止め、雷蔵は首を傾げた。
窓の向こうは何故か憂いを帯びた顔をしている三郎の気分を表すかのように木枯らしが吹いているが、室内はそれなりに暖かい。

「何、どうしたの三郎」

ぺり、と袋の口を開けながらのんびりと訊ねれば、至極真剣な顔で三郎は繰り返した。

「だから私はチョコが欲しいんだ!」
「あー…まあもうすぐバレンタインだもんなあ」

もさもさと焼きそばパンを頬張っていた八左ヱ門が、うんうんと頷く。焼きそばパンを消費し終わったらしい。そのままおにぎりに手を伸ばしている。

「でもさ、三郎はどうせまたごっちゃり貰うじゃん」

毎度毎度アレだけ貰っておいてまだ足りないの?
言って勘右衛門が呆れ顔を向ける。

「今年は特に多そうだな…俺たちも卒業だし」

まあ卒業っていっても高等部に上がるだけだけど。
豆乳の紙パックを潰しながらそんなことを言いつつ、兵助は然したる感慨も無さそうに「大変だな…三郎の為に散財する女子は」と続けた。
鉢屋三郎はとかくもてる。バレンタインなどおおぴらに思いを伝える事が許されるボーナスイベントでは、先輩後輩問わずこの想い彼に届け!とばかりに手作り既製品本命義理を問わず、登校前に通学路でと始まって、靴箱や机の中果てはロッカー鞄の中と入るところ押し込まれているのなど当たり前、隙あらば呼び出しを食らうというのが毎年のお決まりである。

「だよなあ…なんでこんな変態に…」

やっかみ半分、投げても返されそうにない真心に対する同情半分と言った体で八左ヱ門が頷く。それに同調するように、「どういう意味だ」と憮然とする三郎以外の面々が苦笑を浮かべた。
もっとも人というものは我が身にこそ考えが及ばないもので、完全に『自分のことは棚上げ』状態であると彼らは気付いていない。

「まあ何にせよ、当日になったらいっぱい貰えるんだし、それまで我慢しなよ三郎」

苦笑のまま、それでもやんわりと三郎を宥めるように雷蔵が言うが、三郎は大きく頭を振った。

「違う!私が欲しいのは朔先輩のチョコレートだ!」

それがあれば他はいい!
清々しいまでにきっぱりと断言した姿は男らしかったが、内容が内容だけに他の四人はそれぞれ実に微妙な顔をして三郎を見つめた。

「うわあ…お前それは駄目だろう。今もてない男とお前に精魂込めたチョコを用意してくれているであろう女子を敵に回したぞ?」
「そうだよ三郎。そういうのは思ってても口に出しちゃ駄目だって」
「……あの、雷蔵?それ人のことっていうか三郎のこと言えないからね?遠回しに三郎を肯定してるからな?」
「でも、まあそうだな。今年は朔先輩がいるんだよな」

ぼそりと呟く兵助に、三郎以外の面々は動きを止めた。

「だろう?兵助。今年は去年までとは違うんだぞ!」

輝く笑顔で三郎が力説する。

「何たって、朔先輩がいるんだから!」

朔先輩。
彼らがそう呼ぶのは、大川学園高等部一年ろ組に在籍する女子生徒である。
前の世の記憶を抱いてこの世に生まれ、そして再び集った学園で唯一欠けていたその人がやっと現れたのは、去年の春のこと。
だから今年は違うと三郎が繰り返す。去年までとは決定的に。
それに対して異論を唱えるものはいなかった。

「……朔先輩のチョコか……」
「ハチはいらないのか?欲しくないのか?」
「う…そ、そりゃ…先輩のチョコは欲しい、けど…」
「だろう?」

嬉々として頷く三郎に対して、口元に手を遣り小首を傾げた勘右衛門が「でもさ」と零す。

「ん?」
「先輩の事だから、二択だと思うんだよね」
「二択?」

繰り返す三郎と、それ以外の視線が勘右衛門に集まった。

「そ。ちゃんと俺たちにも用意してくれてるか…それとも平等に全員に『無し』か…」
「……ありそうだな」
「うん、むしろ後者の可能性が高い気がするんだけど気のせいかな」

だって『全員』に均等にあげたら一体どれだけの出費になるだろうか。それならいっそさっぱりと自分の中からバレンタインという行事を抹消しそうな気がする。
だって朔先輩だし。本人が聞けば失礼なと憤慨しそうではあるが、彼らは一様に溜息と共に頷いた。

「いや…雷蔵。あの人のことだ、十分にありえるな…伊助たちには用意するけどそれより上には無し…というパターンも考えられるし…」

かつて彼女が『六年生』と呼ばれていた頃、最下級生には特に甘かったと思い出す。

「記憶を取り戻す前の先輩だったら、多分間違いなくくれた気がするんだけどな…」

とある事件がきっかけで今は記憶を取り戻しているが、蓮咲寺朔は夏の初めまで過去の記憶を失っていた。人としてはまあ至って普通のことであるのだが、その事実が彼らにほんの少し――いやかなり衝撃を与えた事は否めない。記憶喪失(と呼んでいいものか語弊がある気がしなくもないが、だ)中の彼女は、彼らが知る彼女とは根底はともかくとして目に見える言動はまるで別人のようだった。顔が綺麗過ぎる人は見ている分にはいいけど近くに寄っちゃいけない気がするとわかるようなわからないような理屈で、あの立花仙蔵から逃げようとしたのは最早何だか伝説だが(余談ではあるが、同じ理由で逃げようとしたが、後輩だからという理由で逃げられなかったのは久々知兵助である)、基本常に縮こまっていて、隙あらば謝り倒すという低姿勢には驚かされたものだ。

そんな彼女なら、しなくてもいい気遣いだとか、感じる必要もないプレッシャーから万全の準備を整え、この決戦に臨んできた気がする。
そう、『バレンタイン』と書いて『恋の合戦』と読むこの一大イベントへ。……まあその場合恋も何も、単なるお義理千パーセントであろうが。

「……それで貰ってもあんまり嬉しくないよな……。目も合わされずに『竹谷君、これよかったら…』とか渡されるんだぜ…?」

言葉だけで言えば何だか甘酸っぱいが、実際は完全に挙動不審というか怯える女子生徒が脅されてチョコレートを持ってきましたと言われても信じてしまいそうな図になるであろうことは、五人それぞれに容易に想像できた。
何か哀しい。貰えても切ない。それは嫌だ。

「もしくは通り掛った男子に『これ、尾浜君たちに渡しておいてくれませんか?』とかって大袋入りのチョコを預けてそうだよねー。五人でひとつ!みたいな……」

あ、でも先輩人見知りだったからそれは無理かー。
あははーと勘右衛門は笑うが、目は完全に遠くを見つめていた。その場合も非常に虚しいものがある。

「な、何にせよ、記憶がある今の先輩に、当日直接チョコを貰えるのが一番ということだ!私の気持ちがわかっただろう!?」
「おう!わかったぜ、三郎!俺も欲しい、先輩のチョコ!」
「確かに…先輩のチョコは欲しいね…。でも僕たちだけで五人でしょ?僕たちにくれるなら中在家先輩たちの分だっているだろうし…それだけで十人越えるだろうし…ちょっと期待しちゃ悪いかもね…」

ひっそり悩み始めた雷蔵の肩を叩き、勘右衛門は苦笑を浮かべた。

「…雷蔵、気持ちはわかるよ。わかるけどやっぱり欲しいんだよねえ…って…ん、兵助、何してんの」
「え?先輩にメール。今日放課後暇ですかって」
「この流れで…ってまさか直接訴えるのかお前!?」

ぎょっと目をむく八左ヱ門を尻目に、兵助はしれっと答えた。

「当日に備えて親密度を上げておくに越したことはないだろ?」
「……いやこれそういうゲームじゃねぇし」
「じゃあハチは来ないのか?」
「行く。行くけれどもだな!」
「まあ、当日に備えてやれることをやるに越したことはないな」

ふむ、と顎に手を遣り、三郎が思案顔で頷く。

「……って?何するのさ?」
「ずばり!」
「「「「ずばり?」」」」
「全力で持って遠回しに探りを入れ、かつ遠回しにアピールする!」

あまり近すぎても図々しくなるし、遠すぎると先輩のことだから気付かないから、匙加減が重要だ!

「…雷蔵さん、突っ込んでやっておたくの相方」
「うん、どの程度の力加減で突っ込んだらいいかなって今ちょっと迷ってる」
「全力でいいと思うぞ。全力で」

そんなやり取りからそれとなく目を逸らしつつ、八左ヱ門が勘右衛門の袖を引いた。

「勘右衛門、兵助と雷蔵止めなくていいのか?」
「いいんじゃないかな。突っ込みは必要だろ?」
「いやいやいやいや!?お前ら怖いから!その笑顔が怖いから!……つか三郎のは極端だとしてもさ」
「言いたいことはわかってるよ。まあアレは極端にしても、やっぱりチョコは欲しいし、それくらいしかできることってないよね」

先輩が相手だしさ。
困ったようにそれでもどこか楽しそうに笑う勘右衛門に、彼らはそれぞれ頷いたのだった。


いざ行け青少年!
(20120213)

「よし、そうと決まれば作戦を立てるぞ」
「張り切るのはいいけどさ、三郎。まともな作戦にしてね?」
「……努力はする」

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