アイノシルシ

いつだったか、尋ねたことがある。

『私が、怖ろしくはないのかい』

彼女は、少しだけ驚いたように目を丸くして、それから不思議そうにこう言った。

『何故ですか?』

どうしてそんなことを訊かれるのかわからない。声が、表情が、何よりも雄弁に、そう語っていた。



「――様。昆奈門様!あなたってば!!」
「んー、最後のあなたってのも、割と新鮮でいいね」
「……聞こえてるんなら返事くらいしてください。というか起きてたんですか」

瞼を持ち上げれば、反転した視界のなかで腰に手を当て自分の顔を覗きこんでいる妻がいた。

「起きてたと言うか、今まさに君に起こされたってところかな」

で?何?どうしたの。
床の上に寝そべったままという怠惰極まる姿で訊ねる夫に、千鶴は呆れたような顔で諦めたような溜息を吐いた。

「何かあった?」
「いいえ、何もありません」
「?じゃあ何?」
「敢えて言うなら、昆奈門様がここで寝ていたから声を掛けただけです」
「私?」
「そうですよ。いくらなんでもこんな戸口近くで寝ていたのでは風邪を引きますよ?」

のそりと体を起こしながら、昆奈門は笑ってひらひらと手を振った。

「大丈夫だよ。そう軟な鍛え方はしていないつもりだけど」

これでも狼組の小頭を務めてきた身だと言えば、「知っています」と返される。その声が、彼女にしては些か尖っているようで昆奈門はおやと眉を上げた。

「何?」
「……いくら鍛えていても、風邪や病は罹る時には罹るものです。特に今は…」

ちらりと夫を見上げ、言いよどむように一旦言葉を切った千鶴は、それでも続く言葉を吐き出した。

「特に今は身体に障りますよ」
「まあねえ」

昆奈門は苦笑混じりに殊勝に頷いた。目の前に軽く翳した腕には真白の包帯が幾重にも巻きつけられている。そしてそれは、腕だけでなく全身に及んでいた。
まるで何かのまじないか、はたまた呪縛のようだな。
どこか他人事のようにそんなことをふと思う。
床を離れ自由に動き回れるようになったとは言え、この包帯が解けることはない。忌々しい火傷跡は消えない。全快と呼べる日が来るのは、はてさていつになるのやら。

「よっこらせ」と些か年寄り染みた掛け声付きで立ち上がると、昆奈門は妻の手から小さな籠を取った。千鶴は何か言いたげに夫を見上げたけれど、結局そのまま、二人は並んで奥へと足を向けた。
それほど広い家ではないが、それでも戸口近くと火鉢を置いた奥とでは寒暖の差は明らかだった。火の側に向き合って座り、一息つけば自分の身体が冷えていたことを実感する。

「それでどうしてあんな所にいらっしゃったんですか?」

白湯の入った湯飲みを渡しながら、千鶴は訊ねた。昼寝をするなら寝間に行けとまでは言わないが、この部屋かもしくは縁側近くで良かったのではないのだろうか。いつ誰が尋ねてくるかもわからないのに戸口って。

「人の気配で落ち着かないのではないですか?」
「まあそうなんだけどねえ。…ああ、ほら、君が出かけていただろう?」
「ええ、そうですね」

少しばかり近所に買い物に出かけていたことは知っているはずの夫が一体何を言い出すのだろうかと、千鶴は視線でその先を促した。

「だからね、あそこにいれば戻ってきたらすぐにわかるなーと思って」
「……それで風邪を引いたらどうするんですか」

せめて上掛けを持ってくるとか、子どもではないんだから考えてください。

「ははは。ありがとう」
「何でそこでお礼なんですか」

常より少しだけつっけんどんな物言いは、彼女の照れ隠しだ。赤く染まった耳朶は、きっと寒さのせいだけではない。

「千鶴」
「何ですか?」
「こっちへおいで」

呼べば、千鶴は昆奈門の隣へやってきて、こぶしひとつ分ほどの間を置いて座った。
その小さな距離が、彼女の思いやりだと知っていた。触れれば傷だらけのこの身体が痛むのではないかと、苦しむのではないかと。彼女は何時だってそうだ。自分の事より、結局昆奈門を一番に考えてくれる。


『千鶴』
『何ですか?』

泣きはらしたせいで腫れぼったい赤い目で、妻は真っ直ぐに昆奈門を見つめていた。

『…兎みたいだね』
『誰のせいだと思ってるんですか』
『私かな』
『わかっているなら自重なさってください』

白い頬についた涙のあとを拭ってやりたいと思ったけれど、痛む腕は持ち主の意図に反して上手く動いてくれもしない。何とまあ情けないことか。自嘲に歪めた唇で、昆奈門は言うべき台詞を探した。
きっとこれが彼女にしてやれる最善だと思う。そこに自分の感情など必要ない。

『千鶴、聞きなさい』
『…何でしょうか』
『お前は、家に戻れ』
『それは、三行半ですか?』
『そうだ』

千鶴はジッと昆奈門を見つめ、そして――。

『つまらないご冗談ですね』

ハッと鼻で笑った。あれ、ウチの嫁はこんな性格だっただろうか?思わず昆奈門はそう思った。

『いや、冗談では』
『ご冗談でしょう?だってそもそも、ろくに動けもしないのにどうやって離縁状を書かれるのですか?代筆なんて私は絶対に認めませんよ』
『……そういう問題か?』
『そういう問題です。私は帰りませんから。どうしても私を離縁したいと仰られるなら、一日でも早く離縁状を書けるようになってください!』

小さな身体で少し垂れ気味の目に涙を溜めて、それでも叫ぶ姿は、ただ真っ直ぐで。

『……君は』

どうして、君はそうあれるんだろう。

『君は、怖ろしくはないのかい?』
『え?』

少しだけ驚いたように、千鶴は目を丸くした。言われた意味がわからないとでも言うように、ことりと首を傾げる。

『怖ろしい?何がですか?』
『私が、怖ろしくはないのかい?』

この焼け爛れた身体が。傷を負い満足に動けない男が。

『何故ですか?』

どうしてそんなことを訊かれるのかわからない。声が、表情が、何よりも雄弁に、そう語っていた。
心底不思議そうに、千鶴は言った。

『だって、昆奈門様でしょう?』

それが変わるわけでもないでしょう?

『それがどうしてですか?』
『……いや。ありがとう』
『やっぱり熱があるんじゃないんですか?ほら、早く横になってください!』

離縁の話よりよほど顔を青くして、早く布団へ戻れと急かした妻の顔を思い出して、小さく笑う。

「昆奈門様?」

千鶴はあの頃より少しだけ髪が伸びた。未だに幼さを残す顔は相変わらずだけど。
自分を見上げる瞳の中に、映る自分の姿を認めた。
これもまた、私、か。
それでもいいと、千鶴は言う。変わった姿であろうとも、別に中身が変わるでもなしと。
ふふ、と笑えば何ですか?と訝しげな声。

「……君も強くなったもんだねえ」

いやはや、頼もしい限りだよ、奥方殿。

「え?」

開いた距離は、彼女の優しさ。なら、この距離を埋めるのが。

「これが私の愛情、かな」

小さく呟いた声は、触れた千鶴の唇の奥に解けて消えた。


アイノシルシ
(20120110)

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