拝啓、天女様

どうしたって、無駄な時はある。

……というのは少し語弊があるが、碌な準備もなく動いても徒労に終わることはあるし、風向き次第で船の動きも変わる。
医務室にて、眉間に皺を寄せて白湯を啜る仙蔵に思わず私は苦笑した。

「何か私の顔が可笑しいか?」

じろりと睥睨されて肩を竦める。

「いや、可笑しくはないけど」
「泣きっ面に蜂というやつか」
「……小平太」

余計なことを言うなとばかりに、伊作がため息交じりに窘めるが、当の体育委員長は胡坐の上に頬杖をつき、けたけたと笑う。
仙蔵はそんな小平太を睨んだが、その程度のことで堪えるような男でないことは、居合わせた誰もが――それこそ仙蔵自身もよく知っていた。

「まあその気持ちはわかるがな。自分の知り得ぬ場所で、自分が庇護してきたと思っていた者たちが足掻いていた。だというのに、自分自身がしていた事は何なのか。目の前に現実を突きつけられた気持ちは」

小平太は快活な笑い声を引っ込めて、薄い笑みを唇の端に乗せた。伊作もまた、伏し目がちに嗤う。

「それが現実なんだから、仕方ないよ」

「現実」と度々繰り返される言葉。それは私が口にするものと同種であるはずだが、天女という存在から解放された人間にとって、ひどく痛みを伴うものであるらしかった。五年生に言わせれば「そのくらい、罰にもならないでしょう」と辛らつな台詞が飛んできたが、被害者である彼らが言う分には、いくら朋輩といえども私は六年生たちを庇うことができない。散々振り回され、いらぬ用事で今も走り回っている後輩たち。その程度の非難は甘んじて受け入れなければならない。

――朔先輩が、何でそこで神妙に頷くんですか。

思いきり顔を顰めてみせたのは竹谷八左衛門か。五年生の中でも感情の起伏が比較的わかりやすい後輩だが、そこまで露骨に呆れ顔をされた私の立場とは一体。

――先輩だって、被害者でしょう。あの女の。

狼の背を撫でてやりながら、八左衛門はどこか悔しげに呻いた。その表情は、すでに隠されてしまったけれど、今、この時点で、この後輩が案じているのは、更に幼い子らではなく私だという事実に複雑な気持ちになる。年下の彼にまで案じられる私の不甲斐なさと、不器用な優しさに素直に嬉しく思う気持ち。
相反するような二つが入り混じり、きっと私は何とも間抜けな顔をしていたことだろう。

「朔。聞いているのか?」
「え」

つい物思いに耽ってしまっていた私を、仙蔵の声が呼び戻した。

「この状況でぼんやりできるあたり、お前はお前だな」

まったく褒められている気がしない。寧ろ馬鹿にされていないかこれは。
「失礼だな」と反論しかけたが、私はその台詞を飲み込むことにした。思った以上に暗い顔をした朋輩たちを前に、さすがにふざけすぎただろうか。

「……どうしたって、無駄な時はあるんだよ」
「何?」
「どうしたって、無駄な時はあるんだよ」

同じ言葉を繰り返した私に、仙蔵は眉を寄せ、小平太は小首を傾げ、伊作は少しだけ顔を上げた。

「何事にも、相応しい時があるってことさ。動きたくても身動きが取れない時があるように、動いたとしても望まぬ結果しかもたらされない時があるように、動くべき時も訪れる」

望まなくとも、動かざるを得ない時もまた、訪れる。
それは私と『彼女』が対峙すべき時だろうか。
不意に過った考えを頭の片隅に留めながら、私は三人の顔を見た。ただそこに転がっている現実は、さあ今の君たちの目にどう映っているのだろうか。同じものを見て、同じ景色を見て、時に視点が変わったとしても、側近くにいた私たちの世界は、再び交わった。それだけで今は及第点だと思うのは、どうやら私だけであったらしい。

「無駄であろうと、私たちは動かねばならないだろう?」

低く笑う小平太に、仙蔵と伊作が同意を示すように頷いた。

「無駄と言うならば、私たちは既にそれなり以上のものを無駄にしてしまったからな」

それは、時間か、信頼か、己の腕か。それとも己の心の在り様なのか。

「お前の優しさばかりに甘えていては、私たちはまだ戻ってきたと胸を張れない」
「え?」

思わず目を瞬かせた私に、伊作は白湯の入った湯呑を差し出した。
湯気の立つ茶碗を受け取ると、保健委員長は柔く笑んだ。

「慌てて下手を踏むつもりはないよ」

だから安心して、と伊作は言う。

「私たちは、忍術学園六年生だ」

自分に言い聞かせているのか、それともこの場の全員に向けてなのか、仙蔵の声が静かに響く。

「最高学年の矜持もある。それが欠片でも手の内に残っている今、動く時は私たちが作るべきだろう?」
「さすが、仙ちゃん」
「茶化すな小平太」
「茶化しているわけではないぞ?」
「茶化しているようにしか聞こえないよ」
「どうした朔」

小平太が不思議そうに私を見た。

「え、ああ……いや……」

私は首を振った。緩む口元を隠すことに苦労する。
私が思っていたよりもずっと、私の朋輩たちは余程強く頼もしい。私の知る、彼らがそこにいることが嬉しくて、いっぺんに欠けた、隣にあった肩が、背が、腕が、少しずつ私の側へ返ってくる。その感覚のもたらす奇妙な高揚感。
今もまだ始まったばかりの、私たちの戦は時を待つのではない。そうだ。作るべきものだ。

「さすが仙ちゃん」
「お前もか!このろ組が」
「失礼だな、い組」

軽口を叩き、笑い、そうして膝を突き合わせ、交わす言葉に確かに緩やかに変わりゆく「現実」を見て、「彼女」を思う。

ああ、天女様。貴女からすべてを返してもらえるその日が、案外遠い未来ではないやもしれません。


首を洗ってお待ちあれ
(20190723) 

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