踏み出せ、己の足を

「天から降りるって言えば、かぐや姫が有名だよね」

文次郎が不在なのをよいことに、文机に顎を乗せたまま、朔はだらだらと草紙を捲りながら呟く。

「竹取物語か」
「そうそう。あれは確か、かぐや姫は月で罪を犯したから地上に落とされた……」
「穢れた地上で罪を贖えとな」

昔読んだ話を思い出しながら答える。朔は「変なの」とぶつぶつ言っている。

「変?」
「かぐや姫」
「何がおかしい?」

図書委員長ならばこのような端的な、よく意味の分からない疑問にも答えを返してやるのだろうか。
私は自分の目の前に積みあがった、紙の束の上に視線を滑らすことに忙しかった。
それは、ここ直近の、そう『あの人』が学園へやって来てからのことを記した記録。朔の元へ五年生たちが提出した報告書。そして各委員会の活動報告。読んでいて苦い気持ちになることくらい、私には罰にすらならない。私が現状を知る為にまず知識を得なければならなかった。そしてそれは客観的なものであればあるほど良い。

「かぐや姫はさあ、地上で何をして『赦された』のかな」
「は?」

さすがに手を止めて朔を見た。

「何をおかしなことを言っているんだお前」
「失礼だなあ。でも仙蔵だって思わないかい?かぐや姫がやったことを考えると、誰も幸せになんてなってないじゃないか」
「かぐや姫の存在で富を得た翁たちはどうなる」
「あの人たちは幸せなんだろうか。あの人たちは富を得たけれど、一番大切なものと別れることになるんだよ」

私はある意味、あの二人が一番不幸なのかもしれないと思うよ。

「帝も貴公子も、不運にあったり命を落としたり、袖にされたり散々だけど、あの人たちは所詮他人じゃないか。でも竹取の夫妻はどうだろう」

言われてみればそうなのかもしれない。可愛や可愛と育てた娘が、月という二度と会いまみえることの叶わない天上へ去ったのだから。
だがしかし。

「何故今、その話だ」
「天女様ってさ、かぐや姫だと思う?」
「……は?」

『天女様』という一言に一瞬落ち着かない気持ちを味わう羽目になったが、私はそれを押し殺して朔を見た。

「天から落ちてきた絶世の美女……かどうかは各々の主観に委ねるとして、無理難題を男へ吹っ掛け自分は御簾の奥深くで守り慈しまれていらっしゃる」

既に草紙は閉じられ、机の端へと追いやられている。
唄うような節をつけながら、朔はつまらなさそうに掌で苦無をくるくると回していた。

「かぐや姫だろうな……と私が言えばどうする?」
「どうもしないよ。今の仙蔵にあの人がどう見えるのか聞いてみただけだから」
「今の私に?」

私は思わず目を瞬かせた。

「それならまた意味合いが異なるだろう」
「ん?」
「あの人は、かぐや姫ではないさ」
「それじゃあ何?」
「さあな。得体のしれぬ何か、としか言いようがない」

唯のひとと言い切りたいところだが、そうもいかない。

「あの人が空から降ってきた事実は消えない。その理屈に説明がつかねば」
「ちなみにこれ、小平太と伊作にも訊いたんだけどね。何て答えたか聞きたい?」
「伊作は私と似たようなことを、小平太はどうせ『何でもいい』とでも答えたんだろう?」
「よくわかるね」
「その程度はな」
「その程度のことがわかるなら、現状は上々かなあ」

ははは、と朔が笑う。

「試したか」
「嫌だなあ。人聞き悪い。毒がどの程度で抜けるものか知りたかっただけだよ」

いつ何時、どんな役に立つかわからないだろう?
にやりと唇の端を吊り上げる様は、どこぞの誰かそっくりだ。

「お前、あいつらの前ではその顔を見せているのか?」
「へ?」
「お前にへばりついている五年連中に」
「だから何を」
「無自覚なら性質が悪い。さすがろ組」
「何だか貶されているのはわかるよ。い組」

唇を尖らせる様はいつもの『朔』だ。

「……何?」
「いいや。ところでお前のところにある報告書の類はこれですべてか?」
「五年生に出してもらったもの、委員会活動報告、予算会議……あとは私が持っているあの人に関するあれやこれやの走り書きがあるかな」
「それはどこに?」
「まあとりあえず保健室へ行こう。小平太がそろそろ戻るだろうから。伊作にお茶でも貰ったら?」

どうせこの紙の山を不眠不休で読み込んでたんだろう?
朔は紙の山をすべて行李へ放り込むと、お見通しだとばかりに、今度は意地の悪い猫のような笑みを向ける。

「今のお前には、少し疲れる仕事じゃなかったかい」
「……うるさい」

癪に障るが確かに的を得ていて、軽口を叩く同輩を軽く睨み、大仰にため息を吐いてみせてから、私は腰を上げた。

「あの二人も似たようなもんだからね。まあぼちぼち行こうよ」
「お前はそれでいいのか?」
「んー?」
「あの人を、まだ泳がせておいて」
「よくはないけど、せっかくうまく回り始めたものが、焦って振り出しに戻る方がよほど困るね」
「確かにな」

私たちは立ち上がり、各々行李を抱えて保健室へ向かって歩き出した。そう言えば、並んで歩くなどいつぶりだろう?ふと考えて、それから考えても詮無き事かと思い直す。 並んで歩くのではない。並び立って、あの夜を駆ける。あの頃はまだ遠いのだから。


日々の欠片を集める為に
(20190120) 

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