目を覚ましたならば、先へ行こうか。
――虚のような瞳だと、そう思った。 悲しみも恐怖も嫌悪も絶望も何もない、瞳だった。 「……朔」 細い肩に手をやれば、その朋輩はゆっくりと顔を上げた。地に横たわるかつての級友であったモノから、私へと視線を向ける。玻璃の珠を覗き込んでいるような心持ちになったのは致し方ないことだろう。私の姿を映す瞳にはそれだけ何の感情も宿していなかったのだから。 まるで夜のようだった。星も月も何もない、漆黒の空。私たちの生きる闇の色。 「ああ、仙蔵」 その時初めて気付いたとばかりに、朔は一度大きく瞬きをした。ゆっくりと熱の戻る瞳に、安堵している自分がいた。 「また一人、いってしまったね」 ぽつりと呟いた声に、私はどう返しただろう。ただ頷いただけだった気がした。先に逝ってしまった者よりよほど、お前の方が恐ろしいのだと、その時私は確かにそう思った。 同じ場所に立ち、同じ世界で育ちながら、見ているものは異なるのだと突きつけられているようだったから。 *** 漆黒の空。闇の色。私たちを包み、時に守り育てた夜の色。 息をひとつ吐き、その夜私は闇に身を躍らせた。 身体が重く感じるのは何故だろう。頭の芯がジンと痺れるような感覚を忘れるように、ぼんやりとそんなことを考えた。 向かう先は決まっていた。もう随分前から。私自身が目を背けただけで。 一体いつからこうなったのか、それは考えるだけ無意味だと思う。少なくとも私にとって、目の前に横たわる現実だけが今のすべてだった。 求める姿がどこにあるのか知っていた。伊作に訊ねると少し困ったように首を傾げながら、今日のこの時間であれば煙硝蔵の屋根の上にでもいるのではないかとそう言った。 その言葉は外れることなく、相変わらず細い肩が闇夜にぼんやりと浮かんでいた。 煙硝蔵の屋根の縁に腰かけて、投げ出した両足をぷらぷら揺らしながら何事か思案に耽っていた様子の級友が私の気配に気付き顔を上げた。 「おや、仙蔵」 軽く目を瞠ったあとで、朔は小さく笑った。数日前に同じ姿で同じ顔で、意地の悪い猫のような笑みを浮かべた者がいたが、それとは随分違う、私のよく知る闇など似合わぬような柔らかな笑みだった。 「珍しいね。お前が来るなんて」 「私がここに来ることがそれほど珍しいか?」 「そうだね、少なくとも近頃ではそうだっただろう?」 可笑しそうに笑いながら、朔はうそぶく。 「天女様のお側にはいなくていいのかい」 「お前こそ、ここで何をしている?」 「私がここにいるのが可笑しいかな」 「そうだな。少なくとも、お前はわざわざ夜更けに火薬を扱う趣味はなかったと思うが?」 「私だってたまには火薬も触るよ」 必要とあればね、と朔が目を細めた。 「……知っていただろう」 「何が?」 「私がここへ来ると」 「どうして?」 どうしてだろう。問われて、そこで考えた。言葉は思考より先に口から滑り落ちていた。 ただ漠然とそう思ったのだと思う。 ああ、まったくもって私らしくない。では私らしさとは一体なんだ。 「一人で百面相する為にわざわざここに来たの?お前」 呆れたような朔の声に顔を顰めた。 「好きでこんな禅問答のようなことをしていると思うか?」 「うーん……仙蔵なら微妙なところだなあ」 ふざけているわけではなく、本当にそう思っているらしい。腰を下ろしたまま私を振り仰ぎ、朔は困ったように眉尻を下げた。 「座ったら?」 ぽんぽんと自分の隣を叩いてみせたが、私はそれには答えなかった。 「仙蔵?」 「お前はいつから、気付いていた?」 「一体何に?」 「私が……いや、私たちが、茶番に踊らされていることに」 「茶番ねえ……」 朔の顔から笑みが消えた。私から目線を外し、遠く、空に浮かぶ月を見上げて「茶番、ねえ」と繰り返す。 「さあ、いつからだろう」 朔の瞳から、ゆっくりと色が消えていく。熱を失い玻璃の珠のようになっていく。その瞳を私は知っている。 ぞわり、と背筋が粟立った。 「ねえ仙蔵。逆に訊くけれど、お前は何を茶番だと言うんだい?」 「……この、一連の騒ぎだ」 天女様と我らが慕った女(ひと)。ある日雷鳴と共に空から堕ちてきた女(ひと)。 天にあれず地に降りた者を何故、我らは天女と呼んだのか、今となっては思い出せなかった。 私は懐から紙片を一枚引っ張り出した。 「これは、作法委員会の活動記録だ」 踊るたどたどしい文字は一年生のもの。最下級生が記録を残すことはあまりない。まして――。 「活動を行ったのは、一年生二名。三年は実習授業の為不在、とある」 まして一年生だけで委員会活動を行うなど。 「ああ、お前と綾部があの人と食堂にいた日だろう?」 覚えていないのかと、朔が言う。 「私が怒鳴り込んだ、あの日だよ」 声を荒げることなどまずない朔が、珍しく怒気も露わにあの人に詰め寄った日。蘇る記憶に、苦々しさを感じた。 「上級生不在でも、必要ならば委員会活動は遂行しなければならないだろう?」 大丈夫だよ、その日は勘右衛門に頼んでおいたから。 一年生だけにやらせたわけではないよと朔が言う。 「私が訊いているのは、そんなことではない」 「じゃあ、どうしてそんなことになったか、かな」 先などとうに見越しているとばかりに朔が言う。何の感情も読めない、熱の消えた人形のような瞳で。 「だってお前も綾部もいなかったじゃないか」 月を掴むように朔が腕を伸ばす。そのまま落ちていくような錯覚に、思わずその手を掴んだ。 「鉢屋が」 「三郎?」 朔が目を瞬かせる。その時瞳に己の姿が映りこんでいたことに、闇ではなく人形でもなく、人の目に自分が映ったことに、私は確かに安堵していた。 「鉢屋が言ったことは、本当か?」 「何が」 「あの人がお前に言ったという言葉は――」 お前などいらないのだと吐き捨てたというあの言葉。 「ああ、それか。私はあの人の筋書きにどうやら不要らしいからね」 「何が可笑しい!」 「仙蔵?」 笑いながら自分は不要だと言ってのけたことに、無性に苛立った。 「あの人の筋書き?そんなもので要か不要か決められなければならないのか?私たちは?」 争いは悪。和は善。 他者を傷付けず、皆が穏やかに暮らすことがすべて。 すべて、彼女の言葉が正しい、美しく優しい世界。 「そんなものこそ、不要だ」 ああ、そうだ。美しく優しいだけの世界など存在しない。少なくとも、今この時、私たちが生きるこの世には。 残酷で不平等で、互いに奪い合い、時に与え合う世界。 ああ、そうだな鉢屋。お前が言う様に、呪いのようだ。 私たちが選びとった道を、生きる世界を、容易く否定してのけた彼女の言葉は呪詛のようだ。 己を否定されたというのに、まるで正しい道を与えられたかのような錯覚。幻術のような、甘い言葉。それは私たちが私たちであることを阻む呪い。 「呪い、か。それは言い得て妙だね」 掴んだ手は、あの人のように柔らかな白い手ではなかった。あの人のように小さな、けれど傷だらけの手。私たちが生きてきた証が刻まれた手。力を込めても容易く壊れることなどないと知っていたから、私はその手を強く握った。 「痛いよ、仙蔵」 わざとらしく朔が顔を顰めた。 「痛むんなら、夢ではないだろう」 「普通は逆だよね」 呆れたような声で朔が私の手を握り返した。軽い痛みと共に、今こそ現だと教えてくれる、私のよく知る少し冷たい手だった。 私はまだ、お前と同じものを見ていられるのだろうか。少なくとも、夢から覚めた今は、同じ現を生きられるだろうか。 朔の腕を引くと、軽い動きで立ち上がる。いつの間にか私たちの視界は少しずつずれていた。育つ過程で生じたそれは致し方ない。けれど、そうでないならば。 私は大きく息を吸った。夜の匂いを久しぶりにかいだ気がした。 「醒めた先に何があるのか、お前も見に行く?」 朔が笑う。 「そうだな」 私も笑った。 そこには痛みもあったけれど。 どれだけひどい現実だろうが、甘ったるいだけの悪夢に比べればよほど良い。 同じものが見られるならば。 「おかえり、仙蔵」 唄うように、懐かしい声が告げた。 (20171008) [目次] [しおりを挟む] ×
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