存在証明理論

「……やあ、仙蔵」

驚きに目を軽く瞠ったのは、一瞬のこと。夜に佇む級友は、目を細めて小さく笑った。どこか意地の悪い猫のような、三日月の形に唇を歪めて。

「どうしたんだい、そんな顔をして」
「そんな顔?」

朔は小首を傾げ、可笑し気に自分の頬を指さした。とんとんと叩きながら、言う。

「顔色がひどいよ」

『顔色が悪いぞ』

不意に小平太の声が重なって聞こえた。遠い昔のような、つい今しがたの出来事のような、あの体育委員長と交わした会話。私はどう答えたのだろう。

「……私は」

私は、何だと言うのだろう。
朔は続きを促すように何も言わずに腕を組み、私をただ見ていた。
落ちる沈黙の代わりに、何故か耳元で聞こえる音がある。それが己の鼓動だと気付いたのは、ややあってのこと。どくどくと、規則正しく、けれど鐘のように鼓動が響く。早くしろと胸の奥で声がする。

早く?何を?

心臓を掴まれたような息苦しさを覚えて、私は知らず知らずのうちに胸元をぎゅっと握り締めていた。かさりと指先に触れる何かに気付いたのと、朔の顔がすぐそこにあったことに気付いたのはほぼ同時。

「――ッ」

一体どちらに驚いたのか自分でもわからず、驚いた自分に驚いて、私は一歩後退った。

「仙蔵?」
「あ……」

私はどうしてしまったのだろう。一体何に、これほど急かされている?一体何に、怯えている?
怯えている?私が?

「は…ははは…」
「仙蔵?」
「そんな馬鹿な」
「仙蔵」

左手で顔を覆う。そして右手で握りしめた、何か。
怯えている?私が?この立花仙蔵が?
そんなことがあるものか。怯える理由がないではないか。そう思えば思う程、右手に力が籠る。まるでそれが命綱であるかのように、すがるように、私はそれを握りしめていた。

「仙蔵」

視界が開けた。ぐい、と力づくで左手をはぎ取られる。不機嫌そうに眉間に皺を寄せた朔がそこにいた。

「……どうした、朔」
「それはこちらの台詞だね」

日々の大半をへらりと笑ってやり過ごしてしまう朋輩の、珍しい表情。

「お前こそどうしたの」

相も変わらず朔は不機嫌そうだった。

「私がどうしたと言うんだ?」

作り笑いで答えれば、朔はうんざりしたようにため息を吐く。

「質問を変えようか。この不毛なやり取りを、私たちはいつまで続けるのかな?」
「意味がわからんな」
「この意味すら、わからないならお前も大概に重症だね」
「何が言いたい?」
「この時間に、何か用事かい?」

私の問いには答えずに、朔は更に質問を重ねた。

「私が学園内を歩いていると問題があるのか?」
「いいや。だけど、お前の大切な天女様のおわす場所はこことは真逆だよ」

夜更けにふらふらする場所ではないのではないか、と朔が言う。

「私が必ずしも彼女の側にあらねばならないのか?」

返した言葉に朔が奇妙な顔をした。

「お前がそれを言うとは思わなかったよ」
「何がだ」
「あの人の側にあらねばならないのかと問われる日が来るとは思わなかったと言っているんだよ」

肩を竦め、空を仰ぐようにして朔が私に背を向ける。
その背に、微かな違和感が過った。

「……何の真似だ」
「一体何がだい?」

振り返ることなく、朔が問う。いや、今しがたまで、私が『朔(朋輩)』だと思っていたものが。

「お前……鉢屋か」

肩越しに振り返り、それは苦い顔で笑った。

「残念ながら、大当たりです」
「こんなところで何をしている?」

朔――いや鉢屋は肩を竦めた。

「夜風に当たっていただけですよ」
「そんな馬鹿げた恰好でか?」
「ええ、立花先輩の姿が見えたもので」

性質が悪いと思った。

「悪趣味だな」
「そうですか?」

ではこれ以上不興を買う前に戻りましょうか。
言うなり、友人の姿は掻き消え、そこには見慣れた鉢屋三郎(不破の姿をした、だが)がいた。

「どういうつもりだ?」
「別にさしたる意味はありませんよ。気を悪くされたなら謝ります。申し訳ありません」
「私が訊いているのはそういうことではない」

聡いこの後輩が言葉の意味に気付かないはずがない。その証拠に、鉢屋はため息を吐いて頭をばりばりと掻き毟った。

「どうにも眠れないもので、夜風にでもあたろうかと。そうしたら、立花先輩が可笑しな顔色でふらふらと歩いている姿が見えたので」
「……それは聞いた」
「悩み事があるならば、私よりも朔先輩相手の方が話しやすいでしょう?」
「お前は余計な世話という言葉を知っているか」
「それは勿論」

愚問だと我ながら思う。鉢屋三郎という男は自分の分をわきまえている。そして己にとって無駄な労力も払うことがない。ならば理由は。

「何を考えている?」

鉢屋が目を眇めた。

「何を?私がですか?」

別に何も。

「シラを切りとおしたいなら、もう少し取り繕ったらどうだ?」
「先輩にそれを言われるとは思いませんでしたよ。まったく」

苛立った様子で、鉢屋は息を吐く。

「では逆にお聞きしますが、先輩は何をなさっているのですか?」
「私が学園内にいては何か可笑しいか?」
「そんなことを言っているわけじゃない。これだけ隙だらけの変姿の術を見抜けないほどぼんやりしていて敵襲でもあればどうなさるおつもりですか?」
「隙だらけ?」

鉢屋は変姿の術にかけて学園随一の腕前の持ち主だ。この術に関して言えば、我ら六年すら凌ぐ。その鉢屋の術が見抜けないほど、ぼんやりしていた?私が?

「何の話……」

言われて、気付いた。あの意地の悪い猫のような笑み。未だかつて、朔が私たちに向けたことのないもの。そして不意に詰められた距離と、出会った視線。朔の背丈では私と真正面から目線が合うなど普通ではありえない。それらを見過ごして、最後に気付いた背中の広さ。私たちの中で誰よりも小柄なあれの背は、広くもなければ角ばってもいない。
鉢屋は『完璧』を好む。悪ふざけをしている時であれば別だが、その鉢屋がそれだけ隙を見せた術の意味は?
喉元まで答えがせりあがってきていた。けれどそれを吐き出すことは果たして正しいことなのか。黙り込んだ私に、鉢屋は鼻を鳴らす。

「私はそろそろ長屋へ戻ります」
「鉢屋」
「なんですか?」
「天女様のところへ行かないのかと何故訊いた?」
「先輩方の何より大切なものはあれなのでしょう?」

興味もないとばかりに鉢屋は吐き捨てる。
聞き捨てならない言葉に思わず声を荒げた。後に思えば何とも私らしくないことだった。

「天女様をあれ呼ばわりとはどういうつもりだ!?」
「先輩方はご執心ですが、残念ながら私にはあの女をありがたがる理由も根拠も心づもりの欠片も存在しませんので」
「何?」

睨む私を気にするでもなく、鉢屋は苛立った声で続けた。

「では教えてくださいますか。あの女の素晴らしさとやらを。あの女がこの学園に何をもたらしたのか」
「あの方は……」

一瞬言葉に詰まったことに驚いた。そんなはずはない。そんなはずがない。自分に言い聞かせ、私は急いで先を続けた。

「あの方は、慈愛に満ちた方だ。争いは何も生まず、皆がともに生きることこそ幸福につながるのだと説いてくださった」

そうだ。あの人は、天から舞い降りてきたその時から、揺るぎない意志を貫いている。その意志の強さ。私たちに眩く映る慈悲深い姿。それこそが――。

「それこそが――……」
「先輩?」

先を促す鉢屋の声に、私はついに言葉を止めた。天女様の素晴らしさを後輩に語って聞かせるというのではなく、これではまるで。

「慈愛に、満ちた…」

『…朔が笑ったんだ』

小平太の声が響いた。

『でも、朔が一人でできることと、僕らが放っておくことは話が違う』

伊作の声が響いた。

『伊作に、あなたは何を言った!?』
『悪意がなければ、他者を傷付けてもいいと?』

滅多なことでは声を荒げる事のない朔の叫ぶような声が響いた。
何故予算会議の準備を、お前がしているのだと訊ねた私に朔は言った。

『文次郎は、天女様をお守りすることで忙しそうだからね。下級生だけではいくらなんでも手が回らないのさ』と。

『下級生だけでは』

その言葉が私の鼓動を早める。臨時予算会議の前に立ち寄った作法委員会室。委員会活動を記録した日誌には、私には身に覚えのない活動が幼さの残る筆跡で記されていた。何枚も、何枚も。
何故?という自分への疑問は愚問。
残る日付。それは、私が天女様をお側でお守りしていた頃。その頃、後輩たちは作法委員としての役割を果たそうとしていた。

『なら予算会議は見学に決まりね!』

はしゃいだ彼女の声が、毒のように突き刺さる。この身をじわじわと侵蝕するように。

「先輩?」

鉢屋が怪訝な声で私を呼んだ。

「あの方は…」

慈愛に満ちた――慈愛に満ちた?
そう、争いは悪。和は善。説いた彼女は。

「ねえ先輩。慈愛とはなんでしょう?」

鉢屋はすぐ側の木に背を預け、空を仰ぎながらそう問うた。

「慈愛が不要だとは言いませんが、あの女の説く慈愛に限れば、それは我らに必要ですか?我らは忍の卵だ。そんな私たちにあの女が説いて聞かせる慈愛の言葉は、正直私には絵空事ですらない、呪いに思えるのですが」
「呪い、だと?」
「あの女の言葉は、我らの存在を否定する。私たちが過ごした年月、失った級友、この手の傷――そのすべてが、無駄だということではありませんか?」

鉢屋が己の手をかざす。私もまた、掌へ視線を落とした。消えない火傷痕、傷痕。泣きそうな顔をして薬を運んできた優しすぎる友人たち。刻まれたものは、証。この世界を生き抜くために我らが歩んできた証。
見ないように、気付かないように、蓋をした。小さな胸の奥の箱。その蓋が少しずつずれる音がした。

「立花先輩。私は正直、あの女がどうなろうと別に興味はなかったんです」

己の手から私へ視線を戻した鉢屋が、感情の読めない声音で言う。その目が、先ほどまでと打って変わって暗い炎を宿していることに私は気付いた。

「学園長が滞在を許したのなら、それは仕方ない。けれど、その先あの女がしたことは、先輩方を侍らせて、日がな一日遊び歩き、役にも立たないご高説を垂れただけ。先輩方はその間あの女を守ると仰られ、結果が先だっての毒虫逃走に、侵入者による襲撃、予算会議。割を食うのはいつだって矢面に立っていた朔先輩だ」
「……」
「あの襲撃の夜、あの女が単身救出に向かった先輩に何を言ったかご存じですか?」

『あんたなんかこの世界にいらないのよ!』

唾を飛ばし、鬼の形相で吐き捨てた言葉。自分の置かれた立場など、欠片も把握していない愚かな女の呪詛。

「先日の予算会議後、あの女が私に何を言ったか教えて差し上げましょうか」

『三郎も、みんなも、あの人に騙されているのよ。だって可笑しいでしょう?女なのに忍たまだなんて。そんなの、結局足手まといになって周りを危険に晒す要因にしかならない。あの女の存在は、害になる。わたしにはわかるの。わたしはみんながとても大切。だから、こんなことを言うと、あの女に信用させられているあなたたちは気を悪くすると思う。でも、とても大切なことなの。早くあの女を遠ざけないと、いずれこの学園は危機に陥る』

「……あの人がそう言ったのか」
「疑うなら、私以外の五年にも聞いてみるといい。全員いましたからね」

ねえ、立花先輩。

「これでもまだ!あの女は慈悲深い天の使いですか?命の恩人に対して感謝の言葉もなく、あれはわたしたちの先輩を侮辱した。わたしたちの生き方を、生きてきた道を否定した!これでもまだ!?……ッ」

鉢屋の背後、闇の中からにゅっと伸びてきた腕が、その口を塞いだ。

「そのくらいにしておけ」
「小平太」
「……七松、先輩」

いつになく表情の少ない同輩が鉢屋を取り押さえるように背後から抑え込んでいた。

「鉢屋、お前は長屋へ戻れ」

不服そうな後輩に、小平太は畳みかける。

「不破たちが案じているぞ。それにお前こそ仙蔵のことを言えない顔色だ。あまり朔を心配させてやるな」

腕を解くと小平太は下級生にするように鉢屋の頭をぽんぽんと軽く叩いた。鉢屋はうつむき加減のまま、されるがままになっている。ややあって「失礼します」と消え入りそうな声が聞こえ、そして鉢屋はその場を後にした。

「さて、仙蔵。お前はどうする?」

どうする?どうしたい?最近とみにこの言葉をよく耳にする気がした。きっと気のせいではない。私自身ですら、それを私に投げ掛けてくる。
長屋へ戻る、とかそういった類の返答を求められているわけではないことは、既に承知していた。

「小平太」
「なんだ?」
「お前は、どう思う?」
「天女様のことか?正直に言えば、不思議だな」
「不思議?」
「何故私は、あの人が天女だと無条件に信じたのだろう。あの人がこの世で何を成したでもなし、この学園の外の世界を見たわけでもなし、そんな女の説く世界のあるべき姿をどうして信じたのだろう」

どうして。それは彼女が天女であるから。……天女である、その証拠は?

「まあ、私が言わずともお前、薄々気付いているだろう」
「私が?」
「私からひとつ忠告してやれることがあるなら……そうだな。早く己の立つ場所がどこか、それに気付かなければ、失うぞ」

私や伊作がそうだったように。

「お前とて、あいつらに持っていかれるのは気に入らんだろう?」
最後によくわからないことを言って、小平太は軽い跳躍と共に塀の上に登った。

「どこへ行く?」
「ん?鍛錬だ。早く鈍った身体を戻さねばならんからな。ああ、でも仙蔵。お前は長屋へ戻って寝ろ。鉢屋もお前も、相変わらずひどい顔だ」
「せめて顔色と言え」
「軽口が叩けるなら、まだ大丈夫か」

はははと軽快に笑い、小平太は闇に身を躍らせた。気配が消えるのに時間は掛からなかった。

「気付くべきこと…私が…」

口の中で繰り返し呟きながら、その時私は蓋が開いたことを知っていた。知っていたから、確かめねばならないと思った。この推測が、正しいのか。


仮説と証明
(答え合わせをしよう。)
(20170924)


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