それはまるで、
きらきら、きらきら。 花は芳しく、艶やかで美しい。 床一面に敷き詰めた、煌びやかな小袖や櫛に簪。 文机の上に視線を移せば鼻腔をくすぐる脂粉の匂いと明るい紅の色。 無造作に放り出されたそれを、ぼんやり眺める。 年頃の娘であれば歓声のひとつでも上げただろう光景だが、心は塵ほども踊らない。 自分は年頃の娘ではないし、美しいものに価値を見出すことはあれどそれはこれら個々に対してではなかった。 立花仙蔵にとって、それぞれは『着物』『装飾品』『化粧道具』という『モノ』でしかない。 それらの『モノ』はひとつに――『彼女』に集約されて初めて、彼に『美しい』と思わせる。……はずだった。 どれだけそうしていただろうか。ずきりと頭の奥が痛んだ気がして、仙蔵は頭を振った。 「…………」 部屋の主は、ここに咲く花は、いまだ戻って来る気配がない。 他の級友たちや後輩が顔を見せる様子もない。 『ここ』はこんなにも静かだったのだろうか? ふと思い出したように、仙蔵は懐に手をやった。先ほど無造作に押し込んだ紙切れが指先に当たった。 臨時予算会議で配られた予算案が記されているはずだ。見慣れた友人の字が、そこに並ぶことに微かな違和感があった。 通常の予算会議で手渡されるそれでは見る事のない筆跡だった。会計委員長の、固く角ばった筆跡とは異なる、少しだけ柔らかさを帯びた文字。 かさり、と乾いた音が耳を打ち、仙蔵は己が指に知らず知らず力を込めていたことに気付いた。 指先に残る、傷跡が目についた。これはいつのものだっただろうか。何故かそんな疑問とも呼べない何かが浮かんで消えた。 指先だけではなく、手やら腕やら、それこそそこかしこに傷跡はある。切り傷の跡や、やけど跡まで。 火薬を扱わせれば学園随一。そう呼ばれるようになったのは、いつからだろう。歳を重ね、学年が上がる度、火薬の匂いは仙蔵にとって切り離せない「あって当たり前」のものになった。そうなるまでに繰り返した失敗は、時折手ひどい傷も彼に負わせたけれど、今となっては何ほどのものでもない。 不意に、ひゅうと頬を掠めた微風に仙蔵はハッと顔を上げた。やはり他に人の気配はなく、振り返れば少しだけ戸口が開いていた。 ひゅう、と風が吹く。 冬はまだ遠いはずだ。それであるのに、何故か身を切られるような寒々しさを覚えて、仙蔵は立ち尽くした。 かたかたと扉を叩くように、静かに、けれど確かに風が吹く。 それは喧騒を運んでは来ない。それは。それは――? では何を、運んでくると言うのか。 頭の奥が痺れるように、じんと痛む。久しく病とは縁遠い身であるけれど、何か、風邪でも拾ってしまったのだろうか。 耳元で何かがずっと鳴り続けている。それが自分の鼓動だと、彼は気付いていなかった。ただ陸に打ち上げられた魚のように、空気を求めて喘いでいた。 空気が、欲しい。 清冽な、空気が。どろりと絡みつく、昏く澱んだ何かから逃してくれるであろう空気が。 無意識のうちに、仙蔵はその場を後にしていた。逃げ出したなどとは認められない、そんなつもりもない。けれど、後に考えるにそれは逃避でしかなかったように思う。 どこをどう歩いていたのか、親しんだ学園内でありながら、よく覚えていない。 「仙蔵?どうした」 いっそ間の抜けているとも思える呑気な声に呼ばれて初めて、仙蔵は自分が学園の端、裏門の近くまでやって来ていたことに気付いた。 「どこかへ行くのか?」 声が頭上から降って来る。見上げた視線の先、学園と外を遮る塀の上にいた七松小平太が、その場で屈みこむようにして自分を見下ろしていた。 「……小平太」 確か、小平太は会計委員会室に残っていたはずだ。その男が今ここにいるということは、あの予算会議は終わったというのだろうか。あの、茶番は。 「どうした」と小平太は繰り返した。何がだと訊ねると身軽な動きで塀から飛び降りた体育委員長は少しだけ首を傾げて「どこかへ行くのか」とやはり先ほどの問いを口にした。 「いや、別にそういうわけではないんだが……」 歯切れ悪く答えると、「ならばいいが」とますます訳の分からないことを言われる。 「どういう意味だ?」 怪訝な声音を向ける仙蔵に、小平太は眉を上げてみせた。 「気付いていないのか?」 「は?」 「顔色が悪いぞ、お前。斜堂先生ならば気にしないが、お前にしては珍しいくらいには」 「私の?」 「調子が悪いなら、さっさと伊作にでも見て貰ったらどうだ?朔でもいいだろうが」 「朔……」 「ん?」 「いや、何でもない。……小平太」 「何だ?」 「予算会議は終わったのか?」 「ああ、あれか。あれならとうに終わっている」 「唯歌、さんは?」 何故か呼び慣れた花の名が、喉の奥に引っ付いたような不快感を連れていた。微かに眉を顰めた仙蔵だったが、小平太は気付いていないようだった。 「あの人はまだ会計委員会室だろう?五年に話があるとかなんとかで」 ああ、そう言えばそんな話だった。 「他の連中は?唯歌さんのお側に?」 「いや、あの人がいなくても構わないと言ったから私たちは引き上げたんだ。文次郎と留三郎は渋っていたが、まあ学園内で五年も側にいるんだ。そう滅多なこともないだろう?」 「おい、小平太」 構わないと言ったからと言って離れてはならないだろう学園内であっても危険がどこに潜んでいるんかなど知れたものではなかろう五年と言えど不用意なのではないか。 ぐるぐると回りまわった言葉の羅列が声にならないまま消えていく。奇妙な違和感。なんだ、これは。 「どうした?」 訝しげに小平太が仙蔵の顔を覗き込んだ。咄嗟に息を飲みこんで、浮かんだものをそのまま吐き出した。 「……お前は、何をしていたんだ?」 「私?私はこの辺りを走っていただけだが?最近どうにも鈍っているからな。そろそろ裏裏山へも行かないとなあ……」 顔を顰めながら、小平太がぼりぼりと頭を掻く。 「こちら側へもしばらく来ていなかった。さっき話に出たところだし、竹谷だけに押し付けるわけにもいかないだろう?アレの様子を見がてら来てみたんだ」 アレ。それは、件の毒持つモノら。それはすぐにわかったが、霞みがかった思考の中で、一つの顔がちらついていた。 違う。違う。そんなはずはない。アレとそれは違うものだ。同じ枠で収まっているはずがない。 笑って打ち消そうとした馬鹿らしい考えは、粉々に砕けたものの消え去りはしなかった。 「どうかしたか、仙蔵?具合が悪いんなら、長屋に戻った方がいいんじゃないか?」 遠くに小平太の声が聞こえる。曖昧に頷いて「そうだな」と答えた自分の声さえ遠い気がする。本当に、自分は具合が悪いのではないだろうか。 「担いで行ってやろうか?」 そんな軽口にどう返していたのだろう?いつもの自分がわからない。 「いや、私は…まだ…」 「用でもあるのか?この辺りに用…煙硝蔵にでも行くのか?」 「煙硝蔵…?」 「火薬なら、代わりに取って来てやろうか?」 そんなに案じられる程、自分は具合が悪そうに見えるのだろうか。いや、それよりも。 「仙蔵?」 「大、丈夫だ…。一人で戻れる。火薬は…火薬も問題ない」 「そうか?」 なら私はもう少し走って来るといい、早く部屋に戻れと念まで押して小平太の姿が目の前から消えた。 残されたまま、しばらくぼんやりと仙蔵はその場に立っていた。 「どうして…気付かないんだ…」 ぽつりと呟き、仙蔵は彼に似つかわしくない足取りで、ふらふらと長屋へ向かって歩き出した。 煙硝蔵には、火薬がある。火薬があって当然だし、火薬委員でなくとも仙蔵がそこに行くことも別段珍しいことでもない。 なのに、どうして、思いつかなかったのだ? 煙硝蔵と火薬とが、頭で結びつかなかった。それらは各々ただの単語としてしか、存在していないように。 どうして、とうわごとのように繰り返して歩くその背を見送る者がいることを、彼は知らない。 水の枯れた池の鯉 (20140822) [目次] [しおりを挟む] ×
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