はがして、落として

仙蔵の退室をきっかけに、臨時予算会議はうやむやのままお開きになった。本来の目的である各委員長の了承は得られたので、こちらとしても引き止める理由はない。

天女様は自分の期待通りの予算会議でなかったことに大層不機嫌で、拗ねたようにそっぽを向いていたが、こんな時以前ならば伊作が普段ならば仙蔵がしてくれていたであろうお望みの対応を誰もできないことに更にむくれた。

期待する方が酷、だろうなあ。
オロオロと立ち尽くす武闘派二人は、何だかんだご機嫌取りには向いていない。無口な図書委員長もまた同様に。彼女の様なきらきらした――いや、ぎらぎらの様な気もするけれど――女の相手は時と場合を選ぶだろう。
伊作はそっと影のように部屋を出ていったけれど、天女様はそれすら気付いていないらしかった。

小平太は別にどうすることもなく、部屋の隅で壁に背を預け、腕を組んで少し首を傾げながらその様子を眺めている。
他人事のような態度だが、私もその実、文机に頬杖をついて眺めているのだから似たようなものだ。

さてどうしたものか。時間は有限であるし私たちも別に暇なわけではない。
機嫌がどんどん斜め下に下降している天女様はついにその大きな瞳をうるりと潤ませて、憐れみを誘うかのように視線を投げた。何処に?

――三郎に、である。

さすがに真横に座っているとよくわかる。
ちらりと窺うと、三郎は三郎で、無表情のままその視線を受けていた。触れば弾けそうなほど不快感を抱え込んでいる後輩は、殺気を押し殺して「そう言えば天女様は、我々に御用がおありなのでしょう」と凄まじく平淡な声を出した。
取り繕う、という言葉など幾千光年のかなたにかなぐり捨ててきたに違いない。
通常時ならば仙蔵辺りが何だその物言いはとかなんとか顔を顰めただろうが、生憎不在である。誰も何も言わない為に、室内の空気は緊張感だけを孕んでいく。
しかし当の天女様は空気を読むというスキルがないのか、あえて空気を読まない強心臓の持ち主なのか、三郎の一言に途端にパッと顔を輝かせた。

「そ、そうなの!…あのね…五年生たちにね、お礼が言いたかったの」

何故かポッと頬を染め、俯き加減にもじもじとそんなことを言う。
雷蔵は仮面のように固まった笑顔を張り付けているし、兵助は彼女から一刻も早く離れんと腰を上げる。八左衛門は渋い顔を隠そうともしない。勘右衛門は丸い目を細めて小さく唇を吊り上げた。

「そうですか。しかし我々は何もしていませんが」

過分なお言葉は勿体ないだけです。そう切り捨てる三郎にも天女様はめげることはない。

「そんなことない!みんながいてくれたから、わたしは無事だったんだもの!」

勢いよく首を振り、それから彼女はふと気付いたように六年に面々を見遣った。

「五年生に話があるの。だから、もうみんなはいなくても大丈夫よ」

ふんわり笑った彼女は口調こそ柔らかく優し気だが、どう解釈しても内容は「用は済んだ。邪魔者は去れ」である。
露骨なものだ。肩を竦めながら小平太に目くばせすると、小さな頷きで返される。
小平太は困惑気に視線を交わしていた級友たちの肩を叩き、退室を促した。

「しかし唯歌さんを一人残すわけには…」
「心配し過ぎじゃないか文次郎。学園内だぞ?」

小平太は明るく笑う。

「それにまったく一人きりになるわけではなかろう」

ばんばんと背を叩かれ、その痛みからかそれ以外からか文次郎の眉が寄る。けれど反論が重なることはなく、小平太に連れられるように三人は退出した。
天女様は六年生たちを一顧だにしない。その目はひたすらに五年生――いや、三郎に向いていた。どんな時でも最も正直な彼女の瞳。それが爛々と輝き、まるで獲物を狙う獣のようだ。

ふと、彼女は三郎の隣に座ったまま一向に立ち上がる気配のない私に気付いた。
微かに眉を顰める。わずかな仕草であろうとも、隠しきれていない嫌悪がそこにはあった。

「五年生に、話があるの」

尖った言葉にちぐはぐな清純な笑顔。その気持ち悪さに違和感に、ため息を吐く。別に私は居座ろうとしたわけではなく、単に御輿を上げる機会を逃していただけである。そもそもここにいなくても様子を探ることは造作ないし、最初からそうするつもりだった私は腰を浮かせようとしたが、しかしそれを三郎が制した。

「何故ですか」
「え?」

天女様はぱちぱちと目を瞬かせる。

「朔先輩にいていただいた方がいいのでは?」
「え、どうして?だってわたし、五年生にお礼が言いたくて…」

だから朔くんは別に大丈夫よ?
こてりと首を傾げそう言う彼女に、勘右衛門がわざとらしく不思議そうに問い返した。

「どうして?それこそ、どうしてですか?天女様は勿体なくも我々に、先だっての夜襲の件について話があると仰った。ならばその話は先に先輩にこそされるべきなのでは?」
「朔、くんに?」
「だってそもそもあの日最初に気付いていの一番に天女様の元にはせ参じたのは、朔先輩ですよね。曲者と対峙したのも、何もかも。聡明な天女様なら、わざわざ俺たちが敢えて申し上げることでもないかと思いますが」

眉を上げて勘右衛門が目を丸くする。そんな当然のことにも思い至らないのかと言わんばかりだが、天女様はぽかんと間の抜けた顔をした。ご自慢の麗しの顔も台無しだなあ。

「そ、そうね…。朔くんにもお世話になったのよね」

ありがとう、と取り繕った笑顔が向けられるが、目は勿論笑っていない。

「いえいえ、私には勿体ないお言葉ですよ」

本音である。薄っぺらい上に憎しみの籠った感謝などという矛盾する代物など遠慮したい。
しかしここで消えるわけにもいかない圧力を後輩たちから感じる以上、どんな目を向けられようとも居座るしかない。
諦めの境地で、私は天女様に負けず劣らず心のこもらぬ笑顔を浮かべた。

「じゃあ、朔くんはもう大丈夫よね?」

大丈夫とは何とも便利な言葉である。
繰り返す天女様は更に続けた。

「唯歌、五年生たちにもお礼が言いたいの。朔くんは六年生でしょう?忙しいのに、わざわざそんなことに付きあわせるなんて悪いでしょう?」

私に対してというか、彼女が本来親しくしたいらしいはずの五年生に随分失礼な言いようだと気付いていないのだろうか。

「いや、ええと…」

思わず歯切れ悪くなった私に勝機を見たのか、彼女は駄目押しとばかりに笑む。

「だから、先に戻ってくれて大丈夫よ。遠慮しないで。唯歌には五年生たちがいるもの」

室内の空気が確実に一度は下がったのではないか。ひやりとしたものが背筋を掠めたが、私がこれ以上留まったところで地雷を増やすだけだろう。

「では、お言葉に甘えて私は下がらせていただきます」

八左衛門が驚いたように軽く目を瞠る。兵助は腰を浮かそうとしたが、雷蔵に袖を引かれて動きを止めた。
私は彼らをその場に残し、会計委員会室を後にした。

うん、ごめんね。

ぱたり、と閉めた戸の向こうは今頃さぞや不穏なことだろう。後で散々聞かされるであろう恨み言は甘んじて受けるとして。

「さて…うまくやってくれるといいけど」

まさかここで不運発動などという不運には見舞われないだろうな。
ちらりと投げた視線は、委員会室ではなく天井へ。潜むはずの『影』が苦笑したような気がした。


いちまい一枚
(20140329)    

[ 79/86 ]

[] []
[目次]
[しおりを挟む]

×