水面は揺れる

ここに座るのは初めてだなあ、そう言えば。

少々行儀が悪いが、私は片膝を立ててその上に顎を乗せていた。
見るとはなしに目の前の文机の上を見遣れば、帳簿と算盤、それから十数枚の紙。
やはり何だか慣れない風景である。

「実は結構珍しい光景ですよね。朔先輩が他の委員会委員長の席についてるって」
入口に目を向ければ、三郎と勘右衛門が揃って顔を出した。
「まあねえ」

低く笑う私に、仏頂面ながらも三郎が「我々にはあまり縁のない場所ですしね」と口を挟んだ。
我々に縁遠い場所とは言い得て妙だ。現在私が腰を据えているのは、学級委員長委員会室ではない。会計委員会室の、更に言えば委員長が座すべき席である。

他の委員会室についても同様ではあるが、会計委員会室に所属委員でもない人間が居座ることはあまりない。
例えば各委員会の委員長が一堂に顔を揃える委員長会議の会場になっているとか、今回の様な予算会議でもなければ。

しかし三郎の言う様に、我々学級委員長委員会にとって予算会議は関わりの薄いものである。他の委員会と異なり、私たちは予算確保の為に然程躍起になる必要がないのだ。

「ほんと、まさか六年になってこの席に座る破目になるとは思わなかったよ」
「先輩はずっと学級委員長ですし、なおさらじゃないですか」

三郎は当然のように私の隣に腰を下ろした。勘右衛門はその逆に。私は五年生二人に挟まれるような形になった。

「それは君たちも同様だろう?寧ろ私より君たちの方がそうなんじゃないかい?」

来年のことはわからないけれど、私の知る限りこの二人は今まで五年間ずっと学級委員だった。

「先輩は一年の時は違っていたんでしたっけ」
「そうだね。生物委員だったからねえ」

何やかんやで二学期の委員選挙で変更になって今に至るわけだけれど。

「さて、思い出話はこの辺にしとこうか。これが今回の資料だよ」

言って、私は机上から紙を取り二人に手渡した。
無言で受け取り、それぞれ目を通し始める。しかり予め大体のことを把握している後輩たちは、ものの数秒でぱらぱらと紙をめくり終えた。

「……で、俺たちはどうすればいいんですかね」

大きな目を瞬かせて勘右衛門が小首を傾げる。

「先輩の補佐…というわけではないでしょう」

表情を動かすことなく三郎が問う。

「ま、今回の会議ではそれはいりませんよねー」

けらけら笑う勘右衛門に三郎は肩を竦めただけだった。

「予算会議って言っても、各委員会の委員長もしくは委員長代理のみで行う、でしたっけ」
「ああ。学園長先生が出してきた予算自体がこの間からの毒虫騒ぎやら曲者騒動。…まあそういう本来なら上級生で内々に片付けるべき事案に対するものだからね。ただでさえ日々の授業や負担の増えた委員会で疲労気味の下級生に、たまには休息してもらわないと」
「…そうですね」

静かに頷いた三郎の表情が冴えないのは、これからここにやって来る面々の中に彼女がいるからに違いなかった。会議ならばどうせ必然的に皆集まる。それなら五年だけでなく他の面々も居合わせるその状況で、彼女たっての希望であるところの五年生との対面を果たせばいい。そう言いだしたのは三郎で、他の面々は不承不承ながら三郎がそう言うならばと頷いたと、兵助が顔を顰めていたことを思い出した。

「ま、そういうわけだから。君たちは気楽に座っていてくれればいいよ」

私は左右に控えた後輩たちの肩を軽く叩いた。
その一瞬、彼らは表情を消し小さく頷いた。

「さて、じゃあそろそろかなー」

独りごちた私の呟きを打ち消すように、複数の足音が近付いていた。
足音は当然のように部屋の前で止まる。室内を窺うように間を置いて、最初に現れたのは会計委員長潮江文次郎だった。
むっつりと引き結ばれた口元から、奴が何事かを不本意に思っていることが容易に知れた。
忍としてそれはどうなんだろうね。

「随分不機嫌なご様子だねえ、文次郎?」

軽い口調の私に対し、文次郎がじろりと睨む。何事か言いさしたが、私がそれを制した。

「機嫌の良し悪しはどうでもいいけど、座ったら?最初がつっかえてたら後が困るんじゃないかい」

顎をしゃくると、文次郎はふんと鼻を鳴らし、手近な場所にどかりと腰を据えた。
そのやり取りを一部始終見ていたのだろう、苦笑交じりに伊作が続き、そして長次、留三郎と顔が並ぶ。委員長勢としては最後に、仙蔵と小平太が部屋に入った。
仙蔵はどこかぼんやりとした足取りで空いていた席へ落ち着いた。小平太に視線をやると珍しく何か考えているらしい体育委員長は、仙蔵の斜め後ろに座った。

「ふうん…?」
「先輩?」

どうかしましたかと問うたのは三郎で、その目敏さには感心する。私は何でもと小声で返した。

「それより、あの人がいないな…」

現れるのならば、六年と一緒にやって来ると思っていたのだけれど。

「このまま来ないなら来ないで一向に問題ないですけどね」

勘右衛門が肩を竦める。現れないのならば、約定を違えたのはそちらだと対面を突っぱねる口実になる。その気持ちはわかるし、それならそれで良しとしてもいいのだけれど、私には個人的に彼女に来てもらいたい理由があった。

「さて、どうだろうねえ」

私たち各々の思惑を知ってか知らずか、次に現れたのは五年生たち委員長代理勢だった。今回は委員長である長次が出席しているとはいえ、彼女との対面という目的がある。それを口実に雷蔵も参加している。一応立場上遠慮してか、最後に入ってきた雷蔵はそっと戸を閉め、隅に控えるようにして収まった。
こうして会議を開く為に召集した面々は揃ったわけだが、全員が自分の場所を確保していざ始めようかという段になって、室内に妙な沈黙が落ちた。

「えーと…」

私はぐるりと室内を見回した。

「さて、どうしようか」

誰に尋ねるでもなく口にした一言に眉を上げたのは文次郎だ。

「どうしようかってお前、段取りもできてねぇのに会議するつもりか?」
「やだなあ、段取りくらいはちゃんとできてるよ一応は」
「一応、ってそれで大丈夫なのか?」

若干不安げに口を挟んだ留三郎の口調は文次郎よりいくらか柔らかい。純粋に、とは言えずともこちらをおもかんばってくれていることが窺える声に、私は小さく笑った。

「大丈夫大丈夫」

私は顔の前でひらひらと手を振った。

「そっちは大丈夫なんだけど、もう始めてもいいものかなーと思ってさ。ほら、見学なさるとかなんとか言ってなかったっけ?天女様が、さ」

先に始めていいんだったらそうするけど。
やや意地悪く笑ってそう告げると、文次郎たちが顔を見合わせる。互いに語る視線は「彼女はどこにいるんだ」といったところか。誰かが把握していると思っていたのだろうが、残念ながら誰も知らないらしい。

伏目がちに俯いている伊作や、仙蔵を眺めている小平太はその無言の会話に加わっていなかったけれど、相変わらず心ここにあらずといった風な仙蔵がいることに、私はおやと内心眉を上げた。
まあ、それはそれとして。

「どうする?始めてもいいかな」

返答を求めて、というわけではなく単なる口頭確認である。会議を始めるつもりでそう言った時、廊下を走るパタパタと軽い足音が聞こえた。

「……期待を裏切らない人だなあ」

思わず呟き、私は頬杖をついて入口を見遣った。
軽やかな――というか騒々しい足音は勿論部屋の前までやって来て、そして。

「もう会議始まった!?」

瞳を輝かせ、彼女は場の空気を読むことなく降臨した。

「いえ、これからですよ」

私の声を聞いているのかいないのか、彼女は嬉々として室内に入って来るときょろきょろ周りを見回す。
見学者であるはずだが、彼女は遠慮もなくほぼ中央、仙蔵と兵助の間に身体を滑り込ませた。
一応言っておくが、二人の間には広々とした空間があったわけではなく、二人はごく普通の間隔で座っていた。
ほとんど無理からに腰を下ろした彼女は満足げだが、仙蔵は心あらずだし兵助は鉄壁の無表情である。
あれは結構精神的にきているなあ…。しかし兵助には申し訳ないがしばし堪えてもらうしかない。

「えーと…じゃあまあ揃ったということで会議を始めますよ」

言って私は軽く手を叩く。
室内の視線が自分に集まったことを確認しつつ、料紙を手にする。

「会議っていっても確認くらいしかすることないんだけどねー…」

目を落としたのは、先日私が文句を言いつつ仕上げた予算割である。

「この臨時予算会議があくまで臨時であることはわかってると思うけど、とりあえず直接関係あるのは生物、用具、保健、くらいかな。まず生物、八左衛門」
「あ、はい」

八左衛門がパッと顔を上げた。

「毒虫の一件で破損した飼育小屋の修繕は、お前のところがやったんだよね」
「そうです」
「その際に掛かった費用は生物委員会の予算から出したんだね。その補填分を出すよ。それから先だっての曲者騒動で破損した箇所の修繕に掛かった費用、怪我の手当て諸々に使用した保健室の備品費を補填分として計上してある。…ここまでで何か疑問は?」

ちらりと視線を上げると、困惑気な留三郎と目があった。

「どうかした?用具委員長?」
「い、いや…」

なんでもないともごもご口ごもる。
まあ大方、自分が修繕した覚えがないことに焦っているのだろうがその辺は自分で考えてくれ。

「伊作は?大丈夫?」
「うん、これで十分だよ」

頷く保健委員長を確認して「さて」と目を移す。

「何か言いたげだね、文次郎」
「これのどこが予算会議だっていうんだ?」

腕を組んで鼻を鳴らす会計委員長にとってはさぞ物足りないことだろう。私はわざとらしく眉を上げた。

「お気に召さないようだね。でもこれがあくまで『臨時』予算会議だってことを忘れられると困るな。通常予算会議と異なるなんて、私が仕切ってることと各委員長にしか召集をかけていない時点でわかりきってただろう?」

形式的に手にしていた紙片を文次郎の前に滑らせて、私は続けた。

「不明瞭な予算分配は後々面倒なことになる。だから関係ない委員会であろうとも把握しておいてもらわないといけないから『会議』の体裁を取ってるんじゃないか」

皮肉気に歪めた唇に、文次郎は押し黙った。反論の余地があればするがいいよ。どうしようともねじ伏せてあげるから、さ。

「…先輩。朔先輩」

勘右衛門が私の袖を引き、小声で囁く。

「悪役顔になってます」
「……そんな気分なんだもの」

一瞬押し黙った私だが、そのままぐるりと一同の顔を見渡した。

「さて、何かあるかな。兵助?」

顔の横で挙手していた後輩を指名する。

「火薬委員会委員長代理として、異議はありません」
「あ、生物委員会委員長代理も右に同じです」

ハッとしたように八左衛門が続く。

「保健委員長として、僕も異議はないよ」
「体育委員会も異議はないぞ」

気安い口調の小平太に思わず苦笑してしまうが、難しい顔をした残りの面々が残されている。

「他の委員長はどうかな」

雷蔵がちらりと長次を見ている。寡黙な図書委員長は後輩からの視線に気付く様子もなかった。

「長次?」
「…図書委員会は」
「異存あり?」
「いや…特に問題はない…かと思われる…」

いまいち歯切れが悪い図書委員長の答えを異議なしと解釈すると、残すところは会計、用具、作法だ。
むっつりと黙り込んだ文次郎は放っておいてもいいだろうし、用具もまあ同様だろう。さて、では――。

「仙蔵、作法委員会は?」
「あ、ああ…」

弾かれたように顔を上げた仙蔵の目の焦点が、そこで初めて結ばれた、気がした。

「作法委員会、は」
「どうだい」
「…異議はない。だが…」
「だが?」

問い返すと、仙蔵の顔に困惑の色が過った。その先に続くべき言葉が自分でもよくわからない、そんな風に、仙蔵は口元を掌で押さえた。
しばしの間。そして仙蔵が、再び口を開こうとした。――が。

「ねえ、ちょっとー」

どこか不機嫌そうな声が割って入った。
ここで来たか。

「…何でしょうか?天女様」

にこりと貼り付けた笑顔で、彼女を指名する。

「何か?」
「何か、じゃなくって!あたしは予算会議が見たかったの!」

駄々っ子のように、唇を尖らせる。あ、兵助の眉が寄った。

「それは申し訳ありません。しかし今は本来の予算会議の時期ではありませんので。仕方ないですねえ」

ぷうっと頬を膨らませ、彼女は仙蔵の腕を引いた。

「仕方ないって…。そんな言い方しなくてもいいと思うの…。唯歌はただ、みんなのありのままの姿を見たかっただけなのに…」

同情を買いたいのか、わざとらしく声が上ずる。

「朔くんは、唯歌のこと嫌いなのかもしれないけど…。でも…ッ!」

でも何だ。仰る通り、私は貴女を好ましく思っていない。そこは的確だなあ。でもそこだけだけど。

「ねえ仙蔵。どっちが悪いのかな。唯歌が悪いの?」
「別にどちらが悪いわけでもないでしょう」

気のない私の横槍にもめげることなく、彼女は潤んだ瞳で周りの面々に問い掛ける。

「唯歌が間違ってるの…?」
「いや、唯歌さん…そんな…」

慌てたように腰を浮かしたのは留三郎で、腕を引かれている当の仙蔵は宙の一点を見つめていた。

「仙蔵?」

さすがに天女様もそれに気付いたらしい。微かに眉を顰めて、彼女は仙蔵の身体を軽く揺さぶった。

「聞いてる?ねえ!」
「おい仙蔵」

見兼ねた留三郎が少し強く朋輩の名を呼んだ。

「…仙蔵、ご指名だよ」

仙蔵はゆっくりと顔を向けた。天女様へ。…ではなく私へと。
その瞳に浮かぶ色は、戸惑いか。

「何故…」
「何故?」
「何故、生物委員会に補填がある?」
「は?」

多分聞きたいのはそれではないのだろうが、口をついて出たのはそれだったのだろう。
やや身構えていただけに私は間抜けな声を上げた。

「そこ?話が物凄く戻るんだけど。…まあいいや。毒虫が逃げて騒ぎになったのは覚えてるだろう?」

覚えていてもらわねば困る。人の部屋まで押しかけてきて散々騒いだのだから。
私のそんな思考を読んだとは思えないが、仙蔵が小さく頷いた。

「じゃあ、その毒虫が、例のアレだってことは覚えてる?」
「例の?」
「そ。私たち上級生が、学園長先生直々の仰せで預かっている、アレ」

ぴくり、と仙蔵の柳眉が跳ねた。

「知っての通り、アレは生物委員会が飼育している生き物とも、勿論伊賀崎孫兵のペットとも異なる。色んな意味でね。だから本来、アレの管理は別に生物委員だけの問題じゃないんだよ。体裁上、代々生物委員が主だって面倒見てきたけどね、八左衛門だって四六時中アレの世話だけしてればいいわけじゃない。上級生が各々気に掛けてなきゃいけないんだよ。…私も人のことは言えないけど。一応小屋の修繕は用具委員の、その為の資金繰りは会計委員の領分だ。それを今回生物委員が肩代わりしただけだよ」

だから、本来使われるはずのなかった生物委員会の予算が使用されているし、修繕の為に八左衛門は時間も労力も割いた。

「それは補われるべきだろう?」

納得した?
首を傾げてそう言えば、仙蔵が静かに視線を落とした。

「……承知した」
「そう。他に疑問は?」
「いや、いい」

緩やかに首を振り、仙蔵は柔い仕草でそっと天女様から身体を離した。おや、と思う私を他所に「作法委員会委員長として、異議はない。この件に関して後々蒸し返すこともしない」

仙蔵は口早にそれだけ言うとくるりと踵を返した。

「すまないが、少し用を思い出した。今回はここで退席しても構わないか?」
「予算案に了承さえもらえればそれでいいよ」
「…唯歌さん、申し訳ありませんが、失礼します」

それだけ言い置いて、仙蔵は一人部屋を後にした。足早に去っていく朋輩の形良い唇が、「いや、いい」と言ったその後に声なく「今はまだ」と動いたことを気付いた者はいたのだろうか。


ゆらり、ゆらゆら
(20140325)    

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