合戦前日譚

『彼女』は春であり太陽であり、光そのものだ。

そう形容したのは誰だっただろう?誰かがまずそう口にして、それが積もり積もってこの一つになったのだろうか。それとも、誰がと言うこともなく私たちは自然、そうであると考えたのだろうか。

何にしろ、そう信じていられたことは何と幸福だったのだろう。自分の愚かさに気付くこともなく、目の前にある現実もそれとして受け止めることができなかった。できずとも、なんら不都合などないと無条件で信じていられた。
これが近年稀にみる私の失態だろう。

こみあげそうになる笑いを飲み下し、柱に背を預けたまま私は何となく周囲を見回した。
広げられた絵巻物が無造作に転がっていた。恐らく長次が持ってきたものであろう、華やかな宮中の様子が見てとれるところから図書室の蔵書ではなく個人的に購入した私物だと私はあたりを付けた。
年頃の娘が好みそうな、美しい宮廷絵巻。けれど十分にその対象になり得る目の前の娘は、まるで興味をひかれている様子もなかった。

「ねえ、小平太」

甘ったるい声がねとりと絡みつく。
放った本人もまた、柔らかな身体を摺り寄せるようにして私の腕を取った。

「あのね、あのね!仙蔵に聞いたんだけど、予算会議があるって本当?」
「ああ、明日の放課後に」

頷くと彼女ははしゃいで飛び跳ねた。

「ほんと!?あのね、唯歌ね、予算会議を見学したいんだけどいいでしょう?」

興奮に頬を紅潮させ、少々上擦った声で彼女は強請る。尋ねているのは形ばかりで、その実おそらく彼女は己の願いが無下にされることなど考えてもいないだろう。
予算会議を部外者が見学して一体何が楽しいのだろうか。
冷えた思考でそんなことを考える。

忍たま長屋などより余程居心地よく整えられた室内では、居合わせた朋輩たちが各々異なる顔をしていた。
部屋の隅では長次がこちらに背を向けるようにして、彼女に貸し与えた草紙や巻物を整理している。その背が少し悲しそうなのは、恐らく私の気のせいではない。長次は書物を愛するが故に、それを手荒く扱われるとを嫌う。咎めこそしなくとも、彼女のそれへの扱いに心を痛めているのではなかろうか。

留三郎は留三郎で、まるで下級生たちを見守るように私と彼女とを眺めていた。こうして改めて見ていると、彼女に対する『好意』と一口に言っても様々なものがあるのだと気付く。
長次や留三郎の場合、彼女への想いは恋情ではなく、庇護欲や愛玩動物に対するそれのようだった。
私や伊作はどうだっただろう。思い出そうとしても、遠い昔のようでまるで気持ちは蘇ってこなかった。随分と我ながら都合のいいことだ。
なかなか返事をしない私に焦れたのか、彼女は別の朋輩に問う。

「ねえ、文次郎。いいでしょう?」

くるりと振り返り、彼女は文次郎に笑顔を向けた。

「唯歌、前から予算会議ってどんなのだろうって思ってたの!」

普段は忍の三禁三病と喧しい男は、突然自分に向かって投げられた笑顔にたじろいだ。

「いいでしょう?」
「あ、ああ…。しかし…」
「何だ文次郎。歯切れが悪いな」

理由は知っている。けれど敢えて私はからかう様にそう言った。

「予算会議と言えば我々各委員会――特に会計委員会にとっては合戦ではないか」

笑いながら軽口を叩けば、文次郎は奇妙な顔をした。

「予算会議は危険が伴うもの。最終的にはお前の判断になるのではないか?」
「ま、まあそうかもしれないが…」
「危険?大丈夫よ、だってみんなが唯歌を守ってくれるもの」

自分は守られて然るべき者。それに値する者。そうあることが当然だと、信じて疑っていない声。

「ね、仙蔵。仙蔵もそう思うでしょう?――仙蔵?どうしたの?」

彼女の声に仙蔵の肩が揺れた。どこか心あらずといった様子の仙蔵は、珍しくハッとしたように顔を上げた。

「仙蔵?」
「いや…すみません。何の話でしたか」
「もう、聞いてなかったの?予算会議の話!」

まるで己が主役であるかのように、彼女はぷくりと頬を膨らませた。

「ああ、予算会議でしたね」

仙蔵は頷くが、彼女が騒いでいる内容までは今一つ把握していないように見えた。予算会議、と聞いて仙蔵の頭を占めているのは恐らく別のことだろう。
朔の元を訪れた直後、仙蔵がふらりと作法委員会室に向かい書付を漁っていたことは伊作から聞いていた。
学園一冷静な男。燃える戦国作法。矛盾するような学園内での通り名の、どちらにもそぐわない。平静を失ったように乱雑に紙の束を掻きまわす姿を、伊作がため息交じりに話していた。

『気持ちは、わからなくもないけどね』
『そうか?』
『そうだよ。小平太にだって覚えはあるだろう?あの、足元からすべてが崩れていきそうな不安定さ。その端っこに仙蔵は踏み込みかけてるんじゃないかな』
『…まあな。次は仙蔵と言った朔の見立てはあながち外れてもいないだろうな』

「…境目、か」
「……小平太」
「何だ長次」
「境目が、どうかしたか」
「…いや、なんでもない」

いつの間にか側に立っていた長次に緩く首を振り、私は予算会議がどうのこうのと騒ぐ連中に視線を戻した。

「そうだ、ねえ仙蔵。五年生に会う話はどうなった?」

いつ会えるの?
いつの間にか話は変わっていたらしい。
彼女は可愛らしく小首を傾げて仙蔵に問う。しばらくこの離れに近寄っていなかった私や伊作とは異なり、その他の面々は既に聞き及んでいた話題であるらしい。文次郎と留三郎が微かに眉を顰めたが、それ以外の反応は見られなかった。ただ、問われた仙蔵に場の視線が集中する。
仙蔵はやはりぼんやりしたような風情で、それでも問われた内容に対して答えを返した。

「朔が…五年に話を通したようです」
「…朔くん?」

この離れに近付くこともない級友の名に、彼女の声が微かに低くなったことに気付いた者はいただろうか。

「五年は朔に懐いているので」
「そう、なの?」

彼女の声が険をはらむ。

「朔によると、予算会議の後に、と」
「…ふうん。まあいいわ。予算会議の後に会えるのね?」
「ええ」

すべての主のように鷹揚に頷き、彼女は高らかに宣言した。

「なら予算会議は見学に決まりね!」

反駁は、起こらなかった。
ただ、各々の胸の内をそれぞれが知ることもなく、ゆっくりと幕が上がることを私は感じていた。


ひそやかに、ひめやかに
(20140318)    

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