そろそろ再開致しましょう

ぱちぱちと算盤を弾く手を止めることなく、空いたもう片方で帳簿を繰っていく。
何とも面倒な作業であるけれど、これをやらない事には予算会議が開けないのだから仕方ない。

予算会議が開けるような現状であるのかと問われれば返答に困るが、学園長先生から臨時予算が出る以上予算会議は行うべきであるし、そうなればやらざるを得ない。あれ、何だかよくわからなくなってきた。

「…私、算術苦手なんだけどなあ」

声に出すつもりはなかったのだけれど、知らず知らずこぼれた本音に、ぱちり、と珠を弾いていた音が止んだ。

「そうなんですか?」

大きな目を瞬かせ、首を傾げたのは兵助だ。
学級委員長委員会室に火薬委員長代理の久々知兵助がいるというのは珍しい光景なのだが、何ということはない。ふらりと現れた兵助が、山のように積まれた帳簿を睨んでいた私を見かねて手伝いを申し出てくれたのだ。

「そうなんだよ。数字をさばくのが苦手というか…」

私はそもそも生来の文系人間である。算数程度ならばまだしも数学に名前が変わるとお手上げというような、残念な過去を持つ人間である。
ふと過った遠い昔、やり直せるのならばもう少し勉強したのになどと思ったことを思い出して笑いそうになった。やり直しても私が私である以上さしたる変化はないようだ。進歩もないが退化していないだけマシとすべきか。

「でも先輩は薬を扱われるじゃないですか。あれは配合を少しでも誤ればまったく意味のなくなるものでしょう?」
「薬はねえ…あれはどっちかというと暗記の類なんだよ。私の中で」

確かに目分量で適当に、というわけにはいかないが特に苦手意識を持った覚えもないのは、つまりそういうことだ。
兵助は少し不思議そうな顔をした。
差異がわからないとでも言いたげである。
その兵助は別段算術が苦手だという話を聞いたこともない。

「ていうか兵助」
「はい、何ですか?」
「君に苦手なものってそもそもあるの?」

兵助の手がぴたりと止まった。

「…それは、ありますよ」

俺も人間なんですから。心なし不機嫌そうにそう言われて、触れてはいけないことを口にしたのではなかろうかと私はほんの少し身を固くした。
付き合いの長い間柄とはいえ、容易く踏み込んでいい場所とそうでない場所はやはり存在していて、私が彼らに許していない場所がある様に、彼らにもそれは当然あるのだろう。
普段が普段なので失念しがちだというのがまずいのだけれど。
しかし私の心配は、杞憂というか聊か的外れなものであったらしい。

「だって先輩。よく考えてみてください。先輩は、七松先輩や三郎たちには苦手なものがないと思いますか?」
「え、小平太?三郎?」

唐突に現れた名に首を捻りつつも、私は各々を言われるまま振り返ってみた。

「…小平太と、三郎ねえ」
「勘右衛門や中在家先輩でも構いませんけど」
「うーん?苦手なものくらいあるんじゃない?」
「でしょう?」

兵助はますます不貞腐れる。一体どうした。

「なのにどうして俺だと、苦手なものもない、なんてことになるんですか」
「へ?えーと…。…い組、だから?」
「…先輩さっき、勘右衛門には苦手なものはあると仰いましたよね」
「…そうだね。あはは…」

拗ねたように唇を尖らせながらも仕事は続けていたようで、兵助は最後のひと筆を書き終えたらしい、墨跡も見事な一枚を私に向けて差し出した。
ありがとうと受け取り、私が確認の為に目を落とすと、兵助の腕がするりと絡みついてきた。それは三郎がよくする行動なのだが、珍しい。兵助は五年生が揃っているところでこそ私に大っぴらにじゃれついてくるけれど、二人きりの時はどちらかというと距離を取りがちだ。意識しているのかいないのかわからないけれど、何かを推し量る様に、少しずつ近付いてくる。しかし今日に限って言えば、そうではなかった。これは余程拗ねているのか、甘えたいのか。三郎ならば後者だけれど、兵助はどうだろう?
兵助は私の腹に顔を隠すように埋めてくる。少しだけ考えて、私は艶やかな黒髪を梳くように撫でた。

艶やかな黒髪、という呼称は仙蔵にも当てはまるけれど、兵助の場合は少し癖がある。三郎や雷蔵とも違う独特の触り心地のする髪を指に絡ませながら、「どうしたの」と訊ねた。

「朔先輩」
「ん?何だい」
「俺にだって、苦手なものくらいあります」
「そうだよねえ。ごめんね。無神経なことを言って」
「…時々」

兵助はくぐもった声で呟いた。

「俺は時々、先輩が火薬委員会委員長ならよかったのにと思います」
「私が?私が火薬委員会委員長だったら、仙蔵あたりからそれこそ止められると思うよ」

私はどうしてか、火器の扱いが然程うまくない。どうしてもなにも、努力が足りないと言われればそれまでなのだけれど、焙烙火矢なんかを作る際にぼんやりしていて火薬の分量を間違えるなんて、笑えないことをしでかすこともあるのだ。それが学園の火薬を一手に管理する委員会委員長になどなれば。

「絶対何かやらかす気がする」

仙蔵の言葉を改めて思い返す。
そもそもの性格が大雑把だとか適当だとかぼんやりしているとか抜けているとか、それは絶対に褒め言葉ではないだろうというような表現でいつだったか言われたことがある。
まかり間違っても朔を火薬委員にだけはするなとわざわざろ組まで来て言うことかと思ったような。

「…あーそうだ。三年か四年の選挙の時だわ。思い出した」

しかもろ組の連中の返答ときたら『それはない』の一言である。擁護ではなく満場一致で私が火薬委員になることを阻止してかかてきたんだっけなあ。
あれ、今にして思えば結構ひどくないか。

「でもまあ自分でもそう思うよ。癪だけど。火薬委員会には兵助がいるし、六年がいないのは大変だろうけど大丈夫でしょう」

私の腰に絡みついていた腕に力が籠った。

「…ずるいです」
「え?」
「だって先輩は、三郎や勘右衛門にはそんなこと言わないでしょう?」
「んー…。そりゃ言わないかなあ…」

別に深い意味はないが。あの二人とて、仮に私がいなくてもどちらかが代理となって務め上げてくれると思う。

「ま、結局のところ、今の五年はみんなしっかりしてるってことだよねえ」

自分も一年前までは五年だったはずだが、こうもしっかりしていただろうか。

「兵助?」

すっかり黙り込んでしまった後輩に、やはり何か気に障ることを私は言ってしまったらしい。らしいがそれがどれなのかわからずに、私は眉を下げた。

「…あの女が」

私の困惑を読んだのか、ぽつりと兵助が呟いた。

「あの女が、俺たちに会いたがってるって本当ですか」
「…ああ。…そうらしいね」

くぐもった声で「俺は嫌です」と兵助は言う。

「あの女の感謝なんていらない。感謝しているというのなら、この学園から消え去ってくれればいい」

剣呑な声音は紛うことなき久々知兵助の本心だろう。そしてそれは恐らく、五年生たちの総意と捉えても間違いではないと思う。
私もまた、可愛い後輩たちを彼女に差し出すことなど考えたくもなかった。

「別に、会わなくてもいいよ。三郎たちにも言ったけれど、それは君たちが決めることだから」

兵助は小さく頷いたようだった。その頭を撫でながら、私は「だけど…」とため息を吐いた。
ちらりと視線を机上の帳簿の山へ向ける。
臨時予算会議。その言葉に、ほんのわずかに揺れた仙蔵。己が無意識にでも放棄した職務を思い出してくれたなら上々。だけど、その心に過ったものが予算会議を何かの催しと勘違いしておられる件の天女様の顔であれば。

「……現れるかもしれないねえ」

彼女が動くが先か、それとも。

「朔先輩?」

兵助が私を呼ぶ。いつの間にか上体を起こし、後輩は不思議そうに私を見上げていた。

「いや、明日が楽しみだと思って、さ」

私は低く笑い、彼女ご自慢の花の顔と朋輩の秀麗な顔を思い浮かべていた。


二幕目まで、あと少し。
(20140312)

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