下拵えは万全ですか

「何の用?」

広げた帳簿に視線を落としたままで、私は招いた覚えのない客人を出迎えた。
我が城とも言える学級委員会委員長室に滅多に現れることのない客人の名は、立花仙蔵と言う。

「用があるからこうして来たんだろう」

仙蔵は人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「冗談も通じないようになったの?お気の毒だねえ」
パチパチと算盤を弾く私の台詞が気に障ったらしい、仙蔵の気配が一瞬だがぴりとささくれ立った。

「どういう意味だ」
「さあね。で、用は何だい。見ての通り、私は忙しいんだよ。話があるなら手短に頼むよ」

それとなく探ってみるが、仙蔵の他に人の気配はない。勘右衛門に言付けた小平太たちへの頼み事は無事に伝わっているのだろうか。
手を止めようとしなければ顔すら上げようとしない私に呆れのような諦めの様な、浅い嘆息を一つ落とし、私と向き合うように腰を下ろした。

細かい費目の並ぶ帳簿の向こうに、自分と同じ松葉の衣色が見えた。
微かに香る甘ったるい匂いが煩わしい。一体この男は何を思ってあの人の側にいるのだろうか。移り香にも気づかぬほど側近くに。

…まあどうせ、何にも考えていないだろうさ。今の仙蔵は。
皮肉げに歪めた唇は、恐らく相手には見えていないのだろう。我ながら意地の悪いことだ。
つらつらとそんなことを考えていた私に、仙蔵はここまで足を運んだ用件を切り出した。

「唯歌さんが、五年に会いたいと仰っているのだ」
「…天女様が?」

ぱち、と算盤から思わず手を放し、私は顔を上げた。
忙しいのだから早くしろと言ったのは自分だというのに、仙蔵の言葉がひどく唐突に投げて寄越された物のように思えてならなかった。
眉間に皺が寄るのを感じながら、私は仙蔵の一言を繰り返した。

「五年生に?天女様が会いたいと?」
「ああ」

仙蔵が頷く。

「何で」
「件の夜襲を覚えているだろう?あの場で唯歌さんを救ったのは、五年連中だ。…口惜しいことだがな」

あの晩を思い出しているのだろう、仙蔵は秀麗なその顔に渋いものを浮かべた。
苦虫を噛み潰したような気分を味わったのは私も同様だった。…意味合いは大きく異なるが。

「で、何でそれを私に言うんだい」
「伊作にお前から五年へ話を付けてもらった方が早いのではと言われてな」
「…伊作から?」

待て伊作。一体どんな暴球を私に投げつけてくるんだお前は。

「確かにあの連中はお前に一番懐いているからな」

私の穏やかざらぬ心中を察する様子もない仙蔵は、別の意味で心中穏やかではないようだがそれでもそちらは勝手に納得しているらしい。

「伊作なりにお前を考えてのことだろう」
「は?」
「これで唯歌さんへ働いたお前の無礼を取り成そうとしているんだろう」
「…無礼?ああ、この間のアレね」

なんとまあ的外れなことだ。
一体どれのことを言っているのか本気でわからなかった私を他所に、仙蔵は滔々と天女様の器の大きさを語っている。あんなことがあったにも拘らず、誰を責めるでもなく、寧ろ感謝を伝えたいというその懐の深さを。
笑うところだろうか。しかしどちらを笑えばいいのか。仙蔵か、天女様か。それとも大人しく与太話を聞いている私自身か。

「話すのは構わないけれど、私には会うかどうかまでは強制できないな」

仙蔵は珍しく鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「何を言う。喜ぶに決まっているだろう?」

天女様がね。
また面倒なことになったものだと思う私を他所に、仙蔵はいついつのこの時間に天女様の元へ五年生を寄越すようにと勝手に段取りを押し付けてくる。
知らず知らず零れたものはため息のようだった。

「――ということだ。聞いているのか?」
「はいはい、聞いてるよ。…言っとくけど、私が請け負うのはあくまで伝えるということだけだよ。繰り返すけど、その先の判断まで強制させるつもりはない」

本音を言えば、こんな伝言を賜わること自体冗談ではないのだが。
しかし仙蔵は私の最後の一言などなかったかのように晴れやかに笑った。これで彼女の願いが叶うと。

「…お幸せなことで」

私の呟きは仙蔵には届かなかったらしい。彼は用は済んだと腰を浮かしかけ、けれどふとその動きを止めた。

「…それは…」
「それ?」

仙蔵の視線が、私の手元へ向かっている。そこには広げたままの帳簿があった。

「それは、会計帳簿だろう?」
「これ?そうだけど」
「何故お前がそれを持っている?」
「何故って、帳簿整理をしているだけだよ。可笑しいかい」

仙蔵が眉を寄せた。

「可笑しいかだと?それは可笑しいだろう?何故お前が帳簿整理をしているんだ。それは――」
「文次郎の役目だ、って?」

我ながら意地の悪いことだ。皮肉気な私の笑みに、仙蔵の瞳が微かに色を増した。どう思っていようとも仙蔵は滅多やたらに感情を荒げることを――それを表に出すことを良しとしない。
けれど今の仙蔵にとってそれはやや困難なことであり、問題は当人にその自覚がないという点だった。

「文次郎は、天女様をお守りすることで忙しそうだからね。下級生だけではいくらなんでも手が回らないのさ」

軽く肩を竦めた私に、仙蔵が何か言いたげに薄く唇を開いた。けれど常であれば皮肉がぽんぽん飛び出すはずのそこからは、微かな呼吸の音だけが聞こえた。

「…そうか」
「ああ、そうだよ」

それだけさ。
奇妙な沈黙が落ちた。私はそれっきり、仙蔵から視線を外して仕事を再開した。ぱちぱちと珠を弾く音が散り、落ちる。
仙蔵は腰を浮かせたまま、立ち去るでもなくしばらくそうしていた。
天女様を賛辞する言葉も何もなく、ただ私は自分の手元に注がれる視線を感じていた。

「ところで仙蔵」
「…あ、ああ。何だ」

微かに狼狽えた声は、私に声を掛けられることを予想していなかったらしい。

「お前のところの予算案はどうする?」
「私の?」
「そう、作法委員会だよ。作法委員長どの。もうすぐ臨時予算会議だよ」
「臨時予算会議だと?そんな話は聞いていないが」
「あれ、言ってなかったっけ?」

勿論私は伝えていない。だから仙蔵が知る由もないのだが、しらばっくれた。

「ほら、最近毒虫の脱走やら曲者の侵入やら色々あっただろう?学園長先生が、想定外の出費に対する臨時予算を出してくださると仰ってね。それで三日後予算会議が開かれるのさ」

だからこうして私は帳簿整理をしているのだ。

「伊作に会ったんだろう?聞かなかった?」
「いや…伊作は何も…」

口元に手をやりながら仙蔵はどこか上の空で応える。

「…伊作も小平太も、何も言っていなかったぞ…。いや…待て…」
「仙蔵?」

仙蔵らしくもない話だが、私の声に彼はびくりと肩を揺らした。そのことに一番驚いたのは当の本人だったらしい。

「仙蔵?」

訝しげに名を呼べば、仙蔵はハッとしたように目を瞬かせ、それから小さく頭を振った。

「どうかした?」
「…いや」

歯切れ悪く何でもないのだと口にして、仙蔵はようやっと腰を上げた。そして招いた覚えのない客人は、私の視線から逃げるように踵を返し、部屋を後にした。

「何かあったのかな、あれは」
「思い当たる節でもあったんじゃないか?」
「何か心当たりがあるみたいだね、体育委員長」
「さあな、学級委員長」

呟きに返った答えと共に、ひらりと現れた級友は大仰な仕草で肩を竦めた。
小平太は「伊作が悪いと言っていたぞ」と言いながら懐から包みを取り出した。現れたのは大福で、小平太は帳簿を脇によけると一つを私の口に突っ込み、もう一つを自分の口に放り込んだ。

「揺さぶりをかけてみた甲斐はあったようだな」
「揺さぶり?何かしたの?」
「細かいことは気にするな」

ははは、と小平太は笑い飛ばし、それからふと私の顔に目を止めた。
すっと伸びた指が、私の唇の端に触れ、離れる。

「ついているぞ」

何がとは言わないが、恐らく大福の粉か餡だろう。小平太は自分の指先を舐めとった。

「まあ見ていろ」
「…そうするよ」

触れられた唇の端をなぞりながら、私は目を伏せ小さく笑った。


飢えた獣が微笑した。
(20131218)    

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