次なる舞台へ

「いやあ、ほんと、らしくないですねえ」

軽い声が落ちてきて、小平太と二人天井を仰ぐ。ひらりと降りてきたのは尾浜と竹谷で、仙蔵が現れた際に天井裏へと姿を消したことを勿論僕たちは知っている。

「あの、立花先輩が気付かないなんて、らしくないですね」

笑う尾浜の言葉はもっともすぎて反論の余地がない。

「それよりさっきのあれは一体どういうおつもりなんですか?」

声や口調は笑んでいるのに唯一正直なその目は剣呑な色を湛えて、僕らを見据えた。

「えーと、どっちかな」
「あはは、よかった。ちゃんと気付いてたんですね」
「そりゃあな」

腕を組み小平太が鼻を鳴らした。

「言っておくが、私のあれは敢えて、だからな」
「敢えてにしちゃ、随分乱暴だったけど?」

思わず深く息を吐いた僕に、小平太は軽く眉を上げた。

「あれしきのことで動揺してどうするんだ」
「そりゃそうだけどさ、揺さぶりをかけるんならもうちょっとやんわりと外堀から埋めてった方が良くはないかい?」

下手をすれば揺さぶるどころかその身深く切り込むことになりかねない危うさがあったと指摘しても、小平太は肩を竦めるだけだった。

「時間があればそうするさ。しかし私たちにはあまり猶予がないではないか」

猶予がない。僕はその言葉の、本当の意味をこの時まだ正しく理解してはいなかった。小平太が本当に憂えているもの、恐れているもの。それに気付いていなかった僕は、もしかしたらまだ、あちら側に片足を突っ込んでいたのかもしれない。

「そう言えば、立花先輩は朔先輩のところに行ったんですかね」

竹谷が渋い顔で呟いた。

「俺は嫌ですよ。仮に朔先輩の頼みであったとしても、あの女と顔を合わせるのは」
「俺だって嫌だよ。あの女の礼なんて欲しいとも思わない」

むしろありがたく思ってるんだったら黙って消えてくれないかな。
満面の笑みを浮かべながら尾浜が物騒な台詞を口走る。

「こりゃ仙蔵が直接話を持っていかなくて正解だったね」
「そりゃそうだろう」

小平太が訳知り顔で頷いた。その反応が不思議で、僕は問うように視線を向けた。

「尾浜や竹谷ですらこれだ。鉢屋辺りならひと騒動あるだろう?」
「鉢屋?」
「ああ。何でもあの人はえらく鉢屋にご執心らしいからな」
「鉢屋に?」

それは初耳だった。

「本当ですよ。気の毒なくらい三郎がお気に入りらしいです」
「おかげでアイツが殺気立って、その上雷蔵まで引きずられてるもんだから」
「なるほど。それでお前はおちおち自分の感情に身を任せることもできないんだな」

憮然とした顔をする竹谷は、なるほど図星らしい。
鉢屋に不破が引きずられる。双忍とあだ名されていても、二人は所詮他人だ。忍務の為なら仲間をも欺くことが忍であるとすれば、その関係は随分と近すぎる。けれどそれでいてここまでやって来れたのは、他人であるが故にどちらも各々の足で立っていられたからだろう。その矜持は容易く折れるものではないし、あの二人が弱いわけではないことも知っているつもりだった。
それだけ、あの人の執着は怨嗟のように絡みついているというのだろうか。

――ねえ伊作。

不意に、あの甘い声が蘇った。

――伊作の不運って、もしかして伝染ったりするのかなあ。唯歌も、不幸になっちゃうのかなあ?

甘く、甘く、酔う程に甘い彼の人の声。ぞくり、と背筋を冷たいものが滑り落ちた。
以前であれば、単純に陶酔していられただろう。だけど今の僕にはそれもできない。それは許されないし、許されたいとも、思わない。
甘く、甘く、酔わせるばかりの彼の人。醒めた酔いの向こうには、一体何が残るのか。

「貧乏くじだな、竹谷」
「本当ですよ。……っていうかそれ、先輩だけには言われたくないんですけどッ!」
「あははは……そりゃそうだよねえ……」
僕らが正しく立っていれば、恐らくここまで事態は悪化していなかった。

「朔先輩が正気だったから、この程度で済んでるのかもしれないっスけどね」

竹谷の言葉は真っ当過ぎて、僕らに謝ることも許してくれない。それはそうか。

「竹谷がろ組の歯止め役なら、じゃあ尾浜は久々知の歯止め役ってところかい」
「……そうですね」

ほんとは俺より兵助の方が冷静なんですよ。真意の測りかねる笑顔でもって、尾浜は言う。

「それなのに何でこんなことになってるんだか」
「鉢屋が狐なら、お前が狸だからではないのか」

小平太が真顔でとんでもないことを言う。
ぶっと吹き出す音が聞こえたと思えば、顔を逸らした竹谷の肩が細かく揺れていた。見なかったことにしておいた方がいいだろうか。

「えーと…それよりそもそも二人の話は何だったんだい?僕か小平太に用があって来たんだろう?」

それとも何か薬でも入用かな。
そう訊ねると、尾浜が今思い出したとばかりにぽんと手を打った。…こういうところが狸なんだろうなあ。

「用と言えば用です。お二人に」
「私たちに?」
「朔先輩からの伝言です。『仙蔵のついでに、天女様の様子も見ておいて』だそうですよ」
「…仙蔵のついでにあの人の?」

その件の仙蔵は、当の朔の元へ先ほど向かったばかりなのだが。

「意図は?」
「さあ、特にそれ以上のことは仰っていませんでしたが」

ふうんと小平太が思案するように首を傾げた。

「伊作、悪いが仙蔵の方を任せていいか。お前たちは他の奴らのところに戻ってやれ」
「小平太はどうするんだい」
「私はあの人の様子を探ってみよう。…少し気になることがあるんだ」
「気になること?」
「ああ。先だって、朔が言っていたんだ。『あの人の目的』とは何だろうかと。何か『目的』があるからこそ、あの人はここに留まり続けているのではなかろうか、と。それで私も考えたんだが、別の疑問が浮かんでな」
「あの人の目的…」

僕は小平太の言葉を繰り返した。目的?あの人の、目的?学園に留まる、その目的とは何だろう?……いや、待て。そもそもあの人とは『何』なのだろう?
僕の思考を見透かしたように、小平太がにやりと笑う。

「私の疑問は、恐らく私だけの疑問ではないだろう?」
「確かにそうかもしれませんが、危険ではないですか?」

そう尋ねたのは尾浜だ。意外なものを見る様に小平太が目を丸くする。

「先輩は、一度はあちら側に属しておられた。それがまた何かの拍子に、ということにはなりませんか?」

疑念と言うよりも懸念の色が強い尾浜の声に竹谷が頷く。

「確かにそうならない保証はない、ですよね」
「……私が?またあの人の手の内に落ちると言うのか?」

尾浜と竹谷が揃って息を飲んだ。二人ともさすがに表面では平静を装っているが、内面はそうでないのだろう。
この空間に身をさらしていれば嫌でもわかる。
しかし気の毒に、と思うくせに小平太を窘めない辺り僕もひどいものだ。
ざわり、と空気が震えた。

「同じ轍は二度踏まぬさ」

獣のように目を輝かせ、小平太は悠然と笑った。

そうだ。僕らは二度と、同じ過ちは繰り返さない。


いざ参らん  
(20131108)  

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