償えるなら、
僕の不運があの人を不幸にするのなら、僕はあの人から離れなければいけない。 そう告げると、あの人が花のように笑ってくれたから、きっと正しいことなのだ。 僕が距離を置くことで笑ってくれるなら、僕はそうしなければいけないのだ。 「やあ、伊作君」 「……雑渡さん?」 その日、保健室で僕を出迎えてくれたのは、顔なじみとなってしまったタソガレドキ軍忍組頭だった。 「どうしたんですか?」 まさかこの人が怪我をして、その手当を求めてここへ来たとは思えなかった。現に雑渡さんの前には湯気の上る湯呑が置かれ、本人は横座りで寛ぎながら煎餅を齧っている。 「んー?別に?ちょっと朔に用があってね」 「朔に?」 僕は首を傾げた。 雑渡さんが朔の父親であるというのは、学園内では最早周知の事実で、今更驚きはしない。 そのことが公になってから、ちょくちょく朔に会うために堂々と不法侵入をしていることも知っている。 だけどその事と、この人が保健室で寛いでいる現状がすぐに結びつかない。朔に会う為なら自室に行くか、朔が放課後いる事の多い学級委員長委員会室へ行くべきではないのだろうか。 僕がつらつらとそんなことを考えている間に、雑渡さんは煎餅を一枚食べ終え湯呑に手を伸ばした。 そして、あくまでのんびりとこう言った。 「しかし久しぶりだねえ、君がここに来るのは」 「え?」 雑渡さんは、ずず、と器用にストローで白湯を啜る。僕はただ、目を瞬かせた。 「今日は『天女様』とやらのところへ行かなくていいのかい」 「ゆ、唯歌さんのところにはしばらく行かないことにしたんです」 何かを見透かされているようで、僕は思わず顔を伏せた。 「ふうん?」 然して興味もなさそうに雑渡さんは鼻を鳴らした。そのまま僕からも興味を失ったのか、雑渡さんの視線は僕から離れ、菓子鉢の煎餅へ向けられる。新たな一枚に手を伸ばそうとしたその人に、僕は思わず尋ねていた。 「あの、それより雑渡さん。久しぶりってどういうことですか」 「んー?」 面倒くさそうな視線が返されるが、気にならなかった。気になったのは、雑渡さんのさっきの言葉――「久しぶり」と言ったそれ。 『僕と顔を合わせる』ことが久しぶりなのではなく、『僕が保健室に来る』ことが久しぶりだとこの人は言った。 「別に、深い意味はないよ。私は事実を言っただけで」 「事実?」 「ここ最近ちょくちょく保健室(ここ)に来ているけれど、君の顔は見なかったからね」 「ここに来て…?」 「数馬君を筆頭に下級生とは顔を合わせていたけど、君は不在だったでしょ」 「僕が…?」 どくり、と心臓が音を立てた。 そんなはずがない、そんなはずはない。 僕は慌てて記憶を辿った。 僕がいなかった?保健室に? そんなはずない、と辿れども辿れども、気持ちとは裏腹に僕の記憶が告げていた。 「僕はいつ、ここに来たんだ…?」 僕は呆然と立ち尽くした。 一体いつから、僕は保健室に行かなくなったんだろう。数馬や左近、乱太郎や伏木蔵の顔を見たのは、あれは一体いつの話だったろう。 そんな馬鹿な、と思った。 僕は保健委員で、保健員会委員長だ。僕がいなければ作ることのできない薬だってある。わかっていたはずなのに、僕は何故、ここに来ていないんだ。 そして何故、後輩たちは僕を呼ばなかったんだ? ――何故? 「伊作?」 不意に背後から名を呼ばれ、びくりと肩を揺らす。振り返ると「どうしたの?」と怪訝な顔をした級友がそこに立っていた。 「…朔」 「やあ、お帰り」 「ただ今戻りました」 留守番ありがとうございます、何かありませんでした?と朔が問う。 「何にも。今日は誰も来ていないよ」 「ならいいんですけど」 父様は脅かすから、下級生が怯えて寄り付かなくなったら保健室の意味がないですよ。 僕の脇を通り抜け、朔は肩から下げていた携帯用の薬箱を奥の棚の上に置いた。 「失礼だなあ、私はここにいるだけじゃないか」 「普通、他国の忍は他所で寛いでません。一年い組当たりは真面目な分、父様みたいなのに免疫がないんだから気を使ってあげてくださいよ」 「……お前ね。結構ひどいこと言ってるよそれ、私に対して」 恨みがましい視線を送る父親に、朔はため息を吐いて肩をすくめた。そしてふと気付いたように僕を見る。 「伊作?どうしたの、そんなところに突っ立って」 「あ、いや…別に…」 頭を振る私に「そう?」と首を傾げたものの、朔はそれ以上追及せず慣れた手つきで湯呑を二つ用意した。 「はい」 「あ、ありがとう…」 ことり、と差し出されるまま受け取って、僕は揺れる白湯に視線を落とした。 何かが僕の頭の中に張り付いて離れない。何だ?これは何? 眩暈に似た不快感、これは? 「伊作?」 「な、何?」 「いや、何っていうか、大丈夫?具合でも悪いの?」 薬湯でも煎じようか?と朔が言う。 「いいよ!」 咄嗟に口をついて出た大声に、朔は腰を浮かしたまま、驚いたように目を丸くした。 「……僕は大丈夫だから」 気まずさに口ごもる僕に、朔は大丈夫ならいいよと笑った。 下級生が僕を呼ばなかった理由。僕がいなくても困らなかった理由。 僕じゃなければ作れない薬であっても、作れる人間が全くいないわけじゃない。 僕じゃなければいけないのは、保健委員会内での話に過ぎない。 「…朔。さっき痛み止めの膏薬を扱った?」 「うん、触ったけど…。もしかして匂う?」 朔は少し顔をしかめて自分の制服の匂いを嗅いだ。忍にとって匂いは武器にも弱点にもなりうる重要な要素だ。だけど僕は、今それを指摘したわけじゃなかった。 「父様、匂います?」 「まあ多少はね?さっきまで作っていたんだから仕方ないって範疇だけど」 僕がいなくてもよかった理由。 違和感なく、朔がここにいる。つまりはそういう事だ。 僕じゃなく、後輩たちは朔を呼んだ。朔に頼った。 どうして、と僕が問う。それは、と僕が嗤う。 僕が保健室にいなかった。 僕は保健室にいなかった。 答えは、知っている。 どくどくと響く鼓動がうるさい。 不意に、あの夜、朔が笑っていたのに泣いているようだと思ったことを思い出した。 僕らの知らない何かを知っているのではないかと思ったことを思い出した。 「朔…」 「ん?」 袖に鼻を近づけていた朔が、何、と顔を上げた。 どくり、と心臓が音を立てる。 「あの、」 「朔せんぱーい!」 僕の言葉を遮るように、ぱたぱたと軽い足音を響かせて、幼さの残る声が部屋に駆け込んでくる。 僕らの視線はその後輩に集まった。 「乱太郎」 「伊作…先輩…」 眼鏡の下の瞳が僕を見つけて大きく見開かれる。そこには驚きと、戸惑いと、何かわからないものが混じり合って浮かんでいた。 僕がどうすればいいのかわからずにいる傍で、朔が後輩を手招きどうしたのかと尋ねる。 「あの、擦り傷の薬が欲しいんです」 ちらちらと僕を気にしながらも、乱太郎は朔にそう言った。 「擦り傷?ちょっと待ってて」 ごそごそと薬箪笥を探り、朔はすぐに目当てのものを取り出した。 「誰か怪我したの?」 「はい、金吾が…」 「金吾?」 「今日は委員会で、百キロマラソンらしいんです。多分もうすぐボロボロで帰って来ると思うから」 「……あー…」 朔が半眼になりながら「あの馬鹿は何してんだろうね」と呟く。 「張り切ってるねえ、七松君は」 ずずーっと白湯を啜り、雑渡さんがのんびりと言う。 そう言えば、留三郎が言っていた。小平太が、最近唯歌さんのところにあまり顔を出さないと。 体育委員のマラソンは、学園周囲に変事がないか調べる意味合いも持つ。そんなことを考えているのは上級生ばかりで、下級生にとっては嫌がらせの様なものだけれど、先だって曲者の襲撃があったばかりであるし、唯香さんのことを考えればそれも仕方がないのだろうがとため息を吐いていた。 「張り切ってるというか何というか…。極端なんだから…」 ため息交じりの朔の声に、乱太郎がくすくす笑う。 「でも金吾も次屋先輩たちも張り切ってましたよ」 「それはなにより」 乱太郎の小さな手に薬を載せて、朔が苦笑した。 「じゃあ君も、保健委員として張り切っておいで。ね、伊作」 「え!?」 朔が乱太郎の両肩に手を置いて、その体をくるりと僕の方へ反転させた。 驚き固まる乱太郎は、やや間をおいて、窺うように僕を見上げた。 「…伊作先輩」 消え入りそうな声で呼ばれ、不意にずきりと胸が痛んだ。 泣きたくなって、だけど泣く資格なんてないことを僕は知っていて、だから僕は、笑って言った。 「よし乱太郎、保健委員として張り切って仕事をしておいで」 「わ、わたしも、保健委員として張り切ってきます!」 たったそれだけで、ぱっと顔を輝かせ頬を上気させてそう言って、乱太郎は元気よく保健室を後にした。 その小さな背中が見えなくなるまで、僕は手を振って見送った。 「…朔」 「何?」 「僕は不運なんだ」 小さな背中が消えた方向を見つめ、僕は呟くように言った。 「うん」 「僕は保健委員で、委員会委員長なんだ」 「そうだね」 「僕ら保健委員は、不運委員なんて呼ばれてる」 「今更だね」 ――伊作は不運なのよね? 鈴のようだと思った声が、耳によみがえる。 ――一緒にいると、不運が移っちゃうのかなあ? あの人の幸せの為に、僕は傍にいちゃいけないとそう思った。だから離れようとした。 「僕は誰かを、不幸にしてるのかな」 僕の不運で、僕は――。 「伊作」 ぐい、と襟を掴まれ朔との距離が縮まる。かと思えば、朔はにっこりと笑った。 「本気でそう思ってるんなら殴るよ?」 「だって!だって僕のせいで誰かを傷つけてるんなら、僕は…!」 「だってもあさってもないでしょうが!伊作が不運なのは今に始まったことじゃないし、努力でどうこうなるもんでもないじゃないか!大体誰かを傷つけるって何だよ。私たちは忍のたまごだよ。戦場に立つことだってある。誰かを傷つけることだってあるし、傷つけないわけにはいかないじゃないか。その覚悟がないなんて、今更言わせない!」 叫び声のようだった。朔は一気にそうまくしたてる。 「保健委員が不運持ちだなんてみんな知ってるじゃないか。それで傍にいたら不幸になるって?じゃあ何か?君は留三郎や私たちが不幸になったとでも言いたいのか?乱太郎たちが、誰かを不幸にしているとでも言いたいのか!?」 「違う!これは僕の話であって、乱太郎たちは」 「違わない」 息を飲むほど真摯な瞳が、僕を射抜いた。 「君は不運で誰かが不幸になるのかと言ったじゃないか」 脳裏をあの人の笑顔が過った。僕が側を離れれば大丈夫ですと、そう告げた時の安堵の表情が。 「君が不運だろうとなかろうと、誰かを不幸にしてしまうことなんてものは関係ないよ」 ねえ朔、君はどうして、そんな顔をしているの。どうしてそんな泣きそうな顔をしているの。 「君が私から離れたいのだとしても、不運を理由にするなんて許さない」 僕は朔の手をそっと外した。少しだけ冷たい、僕よりいくらか小さな手だった。 あの日、あの人に、怒ってくれたのはこの子だった。 あの日も、あの夜も、そして今も、僕が守られていたのだ。この小さな手に。 「…朔」 情けなくて、恥ずかしくて、逃げ出したくて、そんな権利はなくて。僕はどんな顔をすればよかったのだろう。 ずっと戦っていたのは朔で、それがいつからかなのかも僕にはわからなくて、からからに乾いた喉の奥からようやっと絞り出した声は掠れて今にも消えそうだった。 でも。 「ありがとう」 本当に言いたかった言葉とは少し違ったけれど、それが今の僕に言える精一杯だった。 「伊作」 朔は驚いたように目を瞠り、そして照れ隠しのように小さく笑った。 痛みの在り処を教えて (20130716) [目次] [しおりを挟む] ×
|