この道をゆくための灯
どれだけそうしていたのだろう。きっと短い時間だった。だけどひどく長くも感じられた。 しかし互いの鼓動の音が聞こえる静寂は、不意に破られた。 「朔先輩!!」 鋭く刺すような声に名を呼ばれたかと思えば、ぐいと腕を引かれる。咄嗟のことに僅かに反応が遅れた私がたたらを踏む。その身体にしがみ付くように腕が絡みつき、私を抱きすくめた。 「三郎……?」 ぎゅうと音がしそうなほど私を抱きしめるのは、藍の制服の後輩。それが誰なのか、私が間違えることはない。 正しく名を呼んだ証拠に、彼は私の肩口に額を押し付けた。 「ど、どうしたの?」 気が緩んでいたところでの唐突なこの展開にうまく付いていくことができず、自然口から出る声に戸惑いが滲む。 そんな私を知ってか知らずか、三郎は駄々をこねる子どものように私にしがみ付く腕に尚力を込めた。 「先輩、朔先輩」 宥めるように腕を軽く叩き、その顔を覗き込もうと身体を捩る。けれど三郎は幼子のように嫌々と頭を振った。 「三郎、どうしたの?」 幾分か平静さを取り戻した私の脳裏に一人の女の顔が過ぎったが、それを押さえ込んでなるたけやわらかな声で繰り返した。 考えられる要因は天女絡みでしかないけれど、それにしても三郎の様子は尋常ではなかったのだ。 「どうしたの?何かあったのかい?」 落ち着かせようとした私に対し、三郎から飛び出した答えは予想外のものだった。 「行かないで下さい!」 「え?」 訴えが理解できずに数度瞬く。 「行かないで下さい!先輩!朔先輩!!お願いだから、貴女まで、貴女は、行かないで下さい!」 「さ、三郎?」 縋りつき、今にも泣き出しそうな声で懇願する。切羽詰ったその様子は、普段の彼とはまるで異なる。今の鉢屋三郎しかしらない者は勿論、上級生の中でもほんの一握りしか知り得ないだろう、その姿。 「三郎!」 強く名を呼んだ瞬間、その肩がびくりと跳ねた。一瞬の静寂。その一呼吸で、三郎は我に返ったようにハッと顔を上げた。 「……先輩……」 どこか呆然とした顔は、不破雷蔵を装うことは勿論、鉢屋三郎であることすら忘れていたとでも言うようで、これが常ならざる事態であることを物語っていた。 「私、は……」 「三郎」 腕が緩みパタリと落ちた代わりに自由を返された私は、身体を反転させ俯く後輩の顔を覗きこんだ。 「三郎、どうしたの?」 青ざめた頬を撫で、言い聞かせるようにゆっくりと話しかける。 「どうしたの?私が、どうしたの?」 「先輩、が……」 「うん?」 三郎がのろのろと顔を上げた。その目が私を通り越し、先を見る。 「先輩たちが、一緒にいるのを見かけて……」 黙って成り行きを見つめていた小平太の姿が、そこにあった。 「先輩が、七松先輩と一緒にいるのを見て……」 「……私と朔がいて、どうした?」 小平太の声は感情が窺えず、ただ平淡だった。 「先輩が、朔先輩まで、連れて行かれる気が…して…」 「連れて?」 小平太が首を傾げる。そこにあるのは純粋な疑問。 「私が朔を、どこへ?」 「……あの、女のところへ……」 自然、眉が寄る。それは小平太も同様に。三郎は、それを不快として捉えたらしい。拳を握り締め、私たちから視線を逸らした。 あの女――それが指す人はこの学園に一人しかいない。上級生たちが傅く、『天女様』である。 三郎らしからぬ揺れる声音は、天女に誑かされた朋輩たちと争いたくないと言った私の為なのか。それとも他者に自分の感情を露呈させてしまった後悔からなのか。 「鉢屋」 小平太が、三郎を呼んだ。 確かに、私たちが眉を潜めた理由は不快故のことだった、けれど、それは三郎が思う不快とはまた異なるものだった。 「私が朔をあの人の元へ連れて行くと思ったのか?」 一歩、小平太が前に出る。 三郎は目を逸らしたまま動かない。ただ、握り締めた拳に一層力が込められた。 「朔まで、あの人の傀儡になると思ったのか?」 『傀儡』 小平太が発した一言に、ぎょっとしたのは三郎ばかりではない。私もまた、驚き小平太の顔をまじまじと見つめた。 一見小平太の顔には、何の感情も窺えない。ただその瞳は凪いだ水面のように静かな色を湛えていた。 「七松先輩……あなたは……」 「見くびるな…と言いたいところだが、私はお前に信頼されるような立場ではないからな。それもまあ、仕方ない」 「小平太」 口を開きかけた私を制し、小平太はひとつ息を吐いた。 「プロに一番近い学年と言われながら、朔以外の六年が揃ってこの様だ。お前の懸念もあって当然だろう」 「先輩……」 呟きに似たその呼び掛けは、私に対してなのか小平太へ向けたものなのか。判別できないまま、反射的に三郎の方へ顔を向けようとした私の腕を、誰かがぐいと引いた。誰か、だなんて考えるまでもなかったのだけれど。 私の体は引かれるままに動き、弧を描くように宙を舞う。咄嗟に体勢を整えることを優先した私が次に見たのは、組む合う二人の姿だった。 「小平太、三郎!」 私がいた場所に、小平太が。そして前へ出た三郎が。 三郎の足は小平太の鳩尾を狙うが、それを払い小平太が上段で返す。紙一重で三郎の顔を掠め、二人は互いに飛びずさり間合いを取った。ぴり、と張り詰めた空気を先に破ったのは三郎だった。足を狙い間合いを詰めた一瞬、小平太が仕掛けた。 小平太の拳を三郎の掌が受け止める。 息を乱すことなく、互いににらみ合う。 止めるべきなのだろうか、それとも。私が迷ったその刹那、小平太が笑った。 「私も随分鈍ったな」 「……ええ、そうですね」 三郎の声は平時のそれに戻っていた。 「以前の先輩なら、この時点で私に一発程度は入れていましたよ」 ふ、と空気が緩み、二人は互いに構えを解いた。 「天女なぞに入れ揚げた結果の御感想はいかがです?」 「嫌味か」 「嫌味に決まってるじゃないですか…ッ!」 「……ッ!?」 完全に隙をついた形で、三郎の拳が小平太の鳩尾に埋まった。 「鉢屋…ッ!!」 「膝をつかないのはさすがですね」 三郎は悪びれることなくしれっと言い放った。 「これは私の分ですので。少なくともあと四人は覚悟しておいてくださいね」 「何……」 「朔先輩ひとりに押し付けて、あの女と遊び惚けておられたんですから自業自得ですよ」 三郎が私の元へ駆けてきて、背に隠れるように回りこんだ。私は、どうやってもはみ出すと思うんだけどなあ…とのんきなことを考えながら、今起きていることを処理しようとしたのだけれど、何だかどうでもいいような気分で、むしろ笑い出しそうで、どんな顔をすればいいのかわからなくなっていた。 私を挟んで三郎と小平太が何やらぎゃんぎゃん言い合っている。文次郎と留三郎みたいだなあ……。珍しいなあ……。 「何か仲良しだねえ」 「朔!?」 「朔先輩!?」 ぼんやりと眺める私に、二人が同時に噛み付いた。 「この流れで何でそんな感想なんですか」 「いや、何でって何でだろう?浮かんだから?」 言ってみた、的な? 「的なってなんだ的なって」 「いやあはははははは」 自分でもよくわからないんだから、仕方ないじゃないか。だって。 だって、ね? 「でもまあ」 最初に戻って来られたのは、さすがですね。 ふいとそっぽを向き、ぶっきらぼうに呟いたのが三郎らしくて、悔しそうな憮然としたような顔が小平太が何だか珍しくて。 「朔が盗られると思って慌てたやつの台詞かそれが」 「過去の行いを振り返って見てくださいよ」 言い返された言葉に小平太がぐっと詰まる。 小平太は手のひらで項を擦りながら、苦った顔をした。 「確かにあの人を天女だと根拠なく信じ、義務を放棄したのは私たちだ」 その事実に弁解の余地はなく、私も弁護する気はない。 だけど、でも。 「それでも、帰ってきてくれたじゃないか」 こちら側へ。 本当に、正しくそうなのか証明する術はないけれど、帰ってきた。小平太は。 「朔先輩が甘いからこその私たちの行動ですから!」 「あー…うん、わかってる。止めはしない。敢えて」 「今の言葉、他の連中の前でももう一回言ってくださいね」 「い組コンビとか嬉々として張り切りそうだよね」 「そりゃそうですよ」 ふん、と鼻を鳴らす三郎と、不貞腐れたような顔をした小平太に挟まれて私は笑った。 私のてのひらに、かえってきたんだ。 そう思うと、何だかとても泣きたくなった。 たとえそれが小さな欠片だとしても。 (私の、)(私の、)(私たちの、) (20130613) [目次] [しおりを挟む] ×
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