僕らの世界に

声が震えた。

「あの人は、ただの人間だよ」

声は鼓膜を揺らし、夜の静寂に溶けて消えていく。
まるで、自分に言い聞かせているよう。
咄嗟に抱きしめるように腕を伸ばした小平太の体温を感じながら、ふとそう思った。

あの人は、人間だ。天女などではない。ただの、女子高生。それは私が一番よく知っている。そして多分、私しか知らないことでもある。
だから私は、これだけははっきりと答えることができる。
同じ、只人なのだと。

「あの人は、人間だよ」

その一言。本当は、言いたくて叫びたくて仕方なかった言葉。
だけどこれ以上何からも遠ざかりたくなくて、失敗したくなくて、怖くて、触れることのできなかったもの。

ああ言ってしまった。こんなはずではなかったのに。私の計画なんてお構い無しに、予期せぬ出来事が続いていく。これも天女様の存在故に?
早鐘を打つ鼓動は誰のものだろう?
風が吹く。月明かりが落ちてくる。小平太は身じろぎひとつせず、私にされるがまま腕の中で黙り込んでいた。

一瞬だったのか、それとも時間は随分経っていたのか。頭の芯が痺れたようのぼんやりしていた私にはよくわからなかった。
小平太が、私の肩を軽く押す。抱きしめたままだった腕を解いて、私は小平太の前にぺたりと座り込んだ。

小平太は握り締めた己の拳を感情の読めない瞳でじっと見つめていた。
何を考えているの。何を想っているの。君は、どうする?

「そうか……」
「え……?」

虚ろな瞳、微かな呟き。問い返した私を見ることなく、小平太は繰り返した。

「そうか……」
「小平太?」

ゆるりと顔が上がる。途方に暮れたように、迷子の子どものように、小平太は私を見た。

「あの人は、人間か……」
「……そうだよ」
「は…ははははッ…!!」
「小平太?」
「はははははは!!じゃあ何故?何故私は彼女が天女だなどと思ったんだ?彼女こそがこの世の至高の存在で、護るべき存在だなんて思ったんだ?真白の彼女こそが正しくて、他は取るに足りぬことだと何故思ったんだ!?なあ朔!」

小平太が私の肩を掴む。骨が軋むほど強く。思わず顔を顰める私に、小平太は言い募る。

「彼女の為に側にいて、彼女の望むままに在るべきだと思ったんだ。争わず、傷付けず、そう在るべきで、そう在れるかも知れないとすら思ったんだ。だというのに私は…私たちは、彼女を護る為に戦った。彼女の顔を曇らせる存在に対して敵意を抱いた。お前のことすら、あの人を不快にするのかと疎ましく思ったんだ!彼女を否定するすべては敵だと思ったんだ!!」
「小平太」

その瞳には、狂気にも似た色が滲んでいた。

「矛盾していると、何故気付かなかったんだ?彼女は誰にも傷付いて欲しくないと言った。争いはいけないことで、皆で仲良く暮らすことが幸福なのだと言った。だけど彼女は、私たちが何をしても、くノ一たちに何を言っても咎めた事なんて一度もなかった。お前が怪我をしていても、大丈夫だと笑ったし、伊作が側にいないことを安心だと言った。傷付いて欲しくないと言った声で、あの人はそう言ったんだ!」

小平太が叫ぶ。

「私はどうして、彼女がすべてだと思ったんだ!?彼女が一体何をした?この世界に何をもたらした?日がな一日私たちと過ごして、それで?それで一体この世の何が変わったと言うんだ!!」

その叫びは、悲鳴のようだった。

「私は忍だ。忍となる為に学び生きてきたんだ。この世で、闇で、生きる為に忍術学園の門をくぐったんだ!」
「……そうだね。私たちは、そうだったね」

誰もが皆、生きる為にこの門をくぐった。去る背を見送り、絶たれた命を見送り、それでも私たちは学び続けてきた。
この戦乱の世で、己としてあり続ける為に。

「それが…これか…」

小平太の手から力が抜ける。ぱたりと落ちた腕と共に、小平太は顔を伏せた。
僅かに覗く唇は、笑みに歪んでいた。

「なあ朔。お前は、何をしていた?」
「…………」
「私たちが、私が、果たすべき役目を履き違えていた間、お前は何をしていたんだ?」
「私は……」
「お前がどこにいるのか、何をしていたのか、私は知らない。そんなことが今まであったか?」

私たちの世界は必ずしも同一ではない。だけど私たちの世界は、確かに重なり合っていた。同じ景色を見ていた。

「お前だけじゃない。金吾や四郎兵衛が何をしていたのかも私は知らないんだ……この学園の夜がこんなに静かだということすら、知らなかったんだ……」

夜間の自主鍛錬は、誰に言われてするというものではない。年月を重ね、経験を積む中で必要と思うから行うものだ。だから学園の夜は、ざわめきがあって普通だった。

「小平太」

名前を呼んで、私はその頭に触れた。びくりと少し大袈裟なほど、小平太の肩が揺れた。
父様が私にするように、私が後輩たちにするように、けれど躊躇いがちに、頭を撫でる。

「……尾浜と、久々知が」
「ん?」
「尾浜と久々知が、お前の側にいた」
「勘右衛門と兵助?」
「鉢屋も不破も、竹谷も」

いつの事を言っているのかわからずに小首を傾げる。

「そうだったんだろう?」
「そうって?」
「私が知らない間、あいつらがお前の側にいたんだろう?」

言われるがままに思い返す。確かに、私は五年生と行動することが多かった。

「お前の側は、私たちの場所だったのに」

頭を撫でる手が思わず止まった。

その『場所』は『私たち』の場所だった。

無遠慮に踏み込みかき回したあの人が現れるまでは。
不意に、小平太が身体を引いた。

「……違うな。先に間違えたのは、私だ」

だから。だから?

「小平太!」

慌てて私はその腕を掴んだ。ここで離してしまえば、もう手に入らない気がして。

「間違えたって言うなら、帰ってきてよ」
「朔……」
「帰ってきて、また一緒にいればいいよ」

私は戸惑う朋輩に言葉を継いだ。

「私と、小平太と。伊作や長次や文次郎、仙蔵と留三郎と。また一緒に」

だって私たちは。

「仲間だろう?」

私の大切な友人たち。いつかは戦場で対峙するやもしれないけれど、それはいつかであって今ではないから。

「そうだろう?」
「……帰って、いいのか?」
「そんなこと、訊かないとわからない?」

いつだって好き勝手に我が道を突き進むくせに?
笑ってそう言えば、無言で抱きしめられる。苦しいほどに。
耳朶を擽った声が少しだけ湿っていた事に気付かない振りをして、私は甘んじてその抱擁を受け入れた。


「ただいま」「おかえり」
(20130419)

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