姿を変えた世界の果てで
夜の闇を、駆けていた。 ただひたすらに。乱れる呼吸も構わずに、私はただ、駆けていた。 学園の裏手に広がる演習場の一角。森と呼んだほうが相応しいようなそんな場所。 ぴしりと跳ねた小枝が頬を打つ。ちりと走った痛みなど気に留める程のものでもなかった。 ここ数ヶ月だ。数ヶ月を思い出せ。 朔はどこにいた?朔は何をしていた? どうして朔は、あの晩私たちではなく五年に知らせた?五年と曲者を追った? 何故、私たちは侵入者を見逃した? 何故、私たちは苦戦し、朔はああも容易く敵を沈めた? 何故、伊作があんな事を言い出した? 何故、朔がああも怒りを露にした? 何故、勘右衛門が用具委員を務めている? 何故、朔の側には五年がいる? 何故?何故?何故? 何故、あいつはあの時――。 この、激しい違和感の正体は? どくどくと跳ねる鼓動の音がいやに耳に付く。 考えねばと思う反面、考えることを拒むようにうまくまとまらない己の思考に、奥歯をぎりと噛み締めた。 何かに急かされるように、駆け、駆け、駆けた。不意に視界が開ける。森を抜け、地に降り立ち、馴染んだ土の匂いと共に私は息を吸おうとした。 けれどそれが何故かできなかった。奇妙な息苦しさに顔を顰める。周囲を見回せど人影はなく、夜はただ静かだった。 「……――っ」 耐えかねて、土を蹴った。大地が駄目ならば、もっと高く、空へと近い場所。そこへ行けば、あるいは。 さやさやと吹く風が頬を撫でる。欠けた月が空に浮かぶ。近隣一帯が見渡せる、校舎の屋根の上。そこで私は、ようやっと息を吐いた。 そして、探していたはずの、けれど今会ってはいけないような気がするその姿を、見つけた。 屋根の端近に腰を下ろし、ひとりぼんやりと月を眺める小さな背中。私と同じ松葉の制服に身を包んだ後姿は、誰かと考えるまでもない。 「……朔」 声は、無意識の内に零れ出た。 呟きにも似た小さな声でも、その耳は正確に拾い上げたらしい。気配に気付いたのかもしれない。 「小平太?」 朋輩は少し驚いた顔をして振り返った。 「どうしたの?」 無言で近付けば、私を見上げ朔は首を傾げた。月を背にする私の表情を読み取ろうとするように、ほんの少し目を眇めて。 ふと思い出し、私はその手を取った。 「小平太?」 不思議そうな声を無視してその袖をたくし上げる。 「え、ちょ、何…」 非難めいた制止の声よりも、私の動きが早かった。腕に巻かれた白い包帯が視界に飛び込んでくる。 「怪我を、していたんだな……」 「ああ、これ?かすり傷だよ」 大したことないよ、と朔は笑った。へらりと、それは私のよく知る笑みで。 「私は知らない!」 思わずあげた小さな叫びに、朔は訝しげな顔をする。 「……小平太?」 「私は知らない。お前が怪我をしていたなんて。知らなかったんだ!」 朔が気まずそうに目を逸らし、そしてとってつけたような明るい声で言う。 「そりゃそうだよ。だって誰にも言ってないし。言うような怪我でもないから。……小平太は何で知ってるのさ」 「この間食堂で、私がお前の腕を掴んだだろう。……あの時、私の手に血がついていた」 「…ああ、あの時」 思い出すように口の中で呟き、朔はふと気付いたように顔を上げた。 「もしかしてその事を言う為に私を探してたの?」 「いや…私は…」 思わず言いよどんだ。そのことを、問いただしたかったのだと今更気付く。朔を探さねばと思っていたのも、本当だ。だけど今ここにこうしているのは偶然で。 「どうしたの?具合でも悪いの?」 朔の声音に案じる響きが混じる。ああ、朔だ。これは朔だ。これが、朔だ。 自分のことよりも他者のことばかり案じる。昔から、朔はそんなやつで、そんなところが、伊作に似ていた。 その癖自分のことを伝えるのは下手くそで、そんなところは長次に似ていた。 「はは…」と口から漏れた乾いた笑い。自嘲に似たそれに、朔が眉を潜める。私が掴んでいたはずの腕がそっと外れ、入れ替わるように朔が私のそれを取った。 幾年も苦内を握り、火薬を扱い、手離剣に触れてきた手。私のものより一回りは小さくて、細い、それでも硬くなった手のひら。私の良く知るそれは、記憶と違わず少しだけ冷たかった。 あの人のものとはまるで違う。これは、生きてきた手だ。 「小平太?」 ずるずると落ちるようにその場に座り込んだ私に合わせて、朔が腰を落とす。どこか不安げに顔を覗きこんで「大丈夫?」と繰り返す。 ざわめく心を宥めるように、私は浅い呼吸を繰り返し、そうして朔を見た。月の光を映し夜の闇を包んだような瞳の中に、確かに自分の姿を認めた。 「朔」 「何?」 「お前に…」 「うん」 「訊きたいことが、ある」 「私に?何だい?」 瞬間、朔が微かに身構えた。そんな気がした。僅かに落ちた沈黙。それに耐えかねるとばかりに、朔が先に口を開いた。 「……天女様の、こと?」 さやさやと吹く風が、二人の間を通り抜けていく。 「やっぱりまだお怒りかな?」 改めて謝りに言った方がいいかい? おどけた調子でそんなことを口走る。けれどその目は私から逸らされて。 「…違う。そうじゃない」 「え?」 違う?ぱちりと目を瞬かせた朔の肩を、掴んだ。そうしなければいけない気がして。揺らぐ世界に立っていられない気がして。 「お前はどこで何をしていた?」 「え?何?何って…」 問われる意味がわからない。困惑気味の視線がそう語る。 ああ違う。違うんだ。こんな事が訊きたいわけじゃないんだ。 耳に突き刺さるような、冷笑に似た声が蘇る。 『朔がどこで何をしていたか?それをわたくしに訊ねる時点でお門違いではなくって?』 醒めた一瞥だけを寄越し、小さく笑った四月一日雛菊の顔が脳裏を過ぎった。 『今更そんなことを知ってどうなさるの?朔があなたたちと『いなかった』。それがすべてでしょう?』 ああそうだ。わかっている。 朔はどこにいた? (私たちとはいなかった) 朔は何をしていた? (委員会に行くと言い残して) 何故、勘右衛門が用具委員を務めている? (それは留三郎の居場所だった。) 何故、夜襲に気付けなかった? (誰も外部に気を配らなかった。) 何故、朔は五年に知らせた? (私たちが、役に立たないと知っていた。) 何故、私たちは何もできなかった? (それは私たちが、) だからお前は、あの夜、あんな風に笑ったんだろう? 知っている。答えは全部私の内に。端から全部揃っていた。 教えてくれと、請わずとも、本当はきっと最初から知っていた。気付かず過ごし、知らぬと思い込んでいた。 認めることが、怖かった。認めたその時、この友人はどうするだろうか。 「小平太?」 黙りこくった私を呼び戻すように、朔が呼ぶ。 不思議そうな顔。小首を傾げ、じっと私の顔を覗きこむ。 「私、は……」 ごくりと唾を飲んだ。ああ、もどかしい。それでもぐらぐらと世界が揺れる感覚からは逃れられない。これが罰?これは罰か? 「私は、いつからこうなった?」 「え?」 ぱちり、と朔が目を瞬かせる。言葉の意味を図りかねる。そんな表情。 「わからない。いや違う、わかってる。わかっているんだ。私は、私が置き去りにしたものは……ッ!」 「小平太。小平太!!」 朔が私を呼ぶ。 「どうしたの?今度はお前なの?『また』あの女が何か言ったの!?」 『また』それが指すものは、伊作への言葉。違う、と緩く頭を振る。違う、私は何も言われてはいない。伊作のように。 彼女は私の身を案じる言葉を口にはしたけれど――。 「……あの人は、言ったんだ」 伊作が供をしないことに『安心して行って来る』と。私の身を案じるその口で、朔なら一人で大丈夫と笑った。 この世で最も美しく、清らで真っ白な天女様。それが彼女だと、一体何故、私はそう信じたのだろう。 あの人が一体、この世で何をしたというのだろう。 「あれは…何なんだ」 気付けば、私は縋るように朔に問うた。 「あの人は、一体何なんだ!?」 「あの人は……」 朔が腕を伸ばす。まるで私を守ろうとでもするように。その小さな身体で、私を抱きしめる。その姿が、何だか可笑しかった。 「あの人は、ただの人間だよ」 耳元で響いたその声に、ただひどく、安堵した。 それでも君はいた。 (20121015) [目次] [しおりを挟む] ×
|