井戸の底を覗いてごらん

朔が、声を荒げたなど、何時振りだろう?

ぼんやりと思ったのは、そんなことだった。
追いかけようと思えばできたはずなのに、何故かあの馴染んだ足音が消えてなくなるまで、私の足は縫いとめられたように動かなかった。

今この状況はどういうことなのか。それを理解しようと頭を動かす。いまひとつ上手く行かないが、それでも私は考えようとした。そこに、何かがある。
理由ではなく、直感に似たものが、違和感を告げる。この場で起きた、一件には、何かが潜んでいるような、そんなものが。
考えろ。考えろ。考えろ。思うがどうにも錆びついた思考は上手く働いてはくれない。

座りの悪さに苛立ちを覚え始め、それを打ち消したくて、私は小さく被りを振った。気付いたのは、その時だった。
軽く開いた両手。そこに何かがついていた。ほんの少量、それはすっかり乾いていたけれど。

「小平太?どうしたの?」

私の異変に真っ先に気付いたのは、すぐ傍らに立っていた伊作だった。自分の両手を見つめ、目を見開き立ち尽くす私に、伊作は訝しげな顔をする。

「……血、だ」

乾いて黒味を帯びたそれは、間違いない。間違えようがない。錆臭いような独特の臭い。

「血?……ッ!?小平太、手を見せて!」

伊作が慌てたように私の両手を取ろうとする。けれどそんな必要はなかった。

「違う……私じゃない」

呆然とした呟きが知らず知らず口からこぼれていた。
血?誰の?誰のだなんて、わかりきっているはずなのに、頭はまるで、それを認めることを拒むよう。
私が掴んだ腕は誰のものだった?私が抑えたあの細い腕は。教えてくれと、叫んだあれは。泣きそうだと思ったあの顔は。

「朔…?」

驚くほどに、自分の声が掠れていた。
どうして、血が?腕を掴んだくらいで少量とは言えべたりと張り付くように血が出るわけはない。
答えなど、考える必要もない。はっきりしたことじゃないか。
最初から、その場所には傷があって、だからこうして血が。

「ッ朔!」
「ちょ、小平太!?」

背中に慌てた伊作の声を聞いた気がした。けれどそれもどうでもよくて、そんなことはどうでもよくて、私はただ朔を探して食堂を飛び出した。
傷?怪我?どうして、何で。一体いつ、そんな怪我をしたんだ。
ここ最近、危険な実習はなかったはずだ。忍務を受けたという話も聞かない。
私は知らない。朔が怪我をしなければならないようなことなんて私は知らないのに。

……知らない?

ふと、私は足を止めた。
どうして?何故?
だって私たちはいつも一緒じゃないか。六年間、ずっといつも。

( あ れ ?)

いつも?
そうだ、いつも、一緒だった。朔と呼べば応えが返る距離に、いた。
たとえ離れることがあっても、私は朔のことなら知っていたし、朔もまた、同様に。
だけど朔は、昨日どこにいた?一昨日は?その前は?その前の、更に前は?

「朔?」

――何だい、小平太。

男にしては少し高く、女にしては少し低いあれの声。
いつも、呼べばすぐに応えて…。

「朔…?」

返らない。振り返っても、周りを見回しても、そこにあの小さな体は見付からない。
何故?何でお前はいないんだ?
いつから?一体いつから、私たちは――。

「小平太!」

現に引き戻されるように名を呼ばれ、私の肩が跳ねる。
自分らしくないなどと思う余裕など最早ない。恐る恐る振り返れば、食堂を飛び出した私を追ってきた彼らと『彼女』がいた。

「小平太、どうしたの?」

急に飛び出すから心配しちゃった。

「……唯歌、さん」

可愛らしい顔を曇らせ、甘い声で私を呼ぶ。心配したと私の身を案じる美しいひと。

「……朔が」
「朔、くん?」

どくり、と鼓動が跳ねた。
朔の名を口にした瞬間、唯歌さんの眉が微かに寄った気がした。きっと気のせいだ。唯歌さんがそんな顔をするはずがない。何故なら彼女は『天女』なのだから。

「朔がどうかしたの?小平太」
「伊作……この血、さっき朔の腕を握った時についたんだ。朔が怪我をしている」
「……朔が?」

私の言葉に、伊作の顔が険しくなる。

「怪我、なんて…何で…」
「わからない。でも…」
「……もしかして」

顎に手を当て真剣な顔で記憶を探る伊作が「あの時じゃ…」と呟く。

「あの時?」
「ほら、あの曲者…」

騒動の、と恐らく伊作の言葉はそう続くはずだったのだろう。それを遮ったのは、不自然に大きな友人の声だった。
「大方、また何かうっかりしでかしたんだろうさ」
「仙蔵?」
「あれは昔からそそっかしいからな。苦無の手入れをしていたはずが血だらけだった、などと笑えない話もあるだろう?」
「そりゃ、そうだけど…でもそれは一年とか二年とか昔の話だろう?」

伊作の言葉にも、仙蔵は肩を竦めるだけだ。

「ひととはそう容易く変わるものでもなかろう。あれのそそっかしさもそう変わりはしないさ」
「まあなあ…ほんと昔っから目が離せないヤツだしなあ」
「…留三郎。でも変だよ。そんな怪我をしているのに僕のところにも来てないんだよ?」

留三郎までがそんなことを言う。伊作は納得しかねると食い下がるが、取り合われない。いや、違う。取り合いたくないのだ。
ひゅうと風を切る音が短く届く。これ以上、この話題を続けるなと仙蔵が飛ばした矢羽音の音。あの夜のことを口にするな、と。

「伊作は心配しすぎだ。大体、アイツも薬の扱いにはそれなりに慣れてるだろ。うっかり怪我をして、それを俺たちに知られまいと自分で処置したとかそんなところだろう?」

文次郎はそう言う。確かに、朔は伊作並に薬の扱いに長けているし知識だって持ち合わせている。怪我の処置もできないことはない。だけれど。

「朔くんて、すごいんだね!」
「唯歌さん?」

場にそぐわない明るい声に振り返る。大きな瞳が私を見ていた。ああそうだ、このひともいたんだっけ。

……あれ?何で今、私は唯歌さんの存在を忘れていたんだろう。

「すごくはありませんよ。本当にいつまで経っても心配を掛けさせる」

仙蔵は苦笑する。唯歌さんは笑う。楽しげに、笑う。何故?朔は怪我をしている。それは一体どれ程のものなのかわかりもしないのに。

「でも自分で怪我の手当てができるんでしょう?なら、ひとりでも大丈夫ね」

大丈夫ね、と微笑む。

「まあそれはそうですね」
「……仙蔵」
「では、我々も参りましょうか」
「え、どこへ…」
「峠の茶店だ」
「茶店?」

話の変わりようにただ目を丸くする。一体どうしてそんな話になったんだ。長次に目を向け問えば、小さな頷きが返された。

「唯歌さんの、気分転換になるだろう?」
「気分転換?」
「ああ、さっきの騒動もあるからな。少し外の空気を吸ってもらったほうがいいかと思ってな」
「俺たち全員が付いてれば問題ねえだろ?」

犬猿の仲と言われる二人が口を揃えてそんなことを言う。

「大丈夫よ小平太」

ぎゅっと、すべらかで真っ白な手が私のそれを握った。

「朔くんはひとりで何でもできちゃうんでしょう?なら、小平太が心配することはないわ。そんな顔しないで?小平太がそんな顔してたら、唯歌も心配になっちゃう」

可愛らしい顔を曇らせ、甘い声で私を呼ぶ。心配したと私の身を案じる美しいひと。この人は。

「唯歌さんは、心配じゃないのか?」

誰にでも優しく、慈しみの心を忘れない天女様。
こうして私を心配してくれる、美しく優しく素晴らしい天女様。
なのに何故?

「朔のこと……」
「小平太?どうしたの?」

何だ?何だ、これは。ぐらりと足下が揺らぐような感覚に、背筋が粟立った。

「小平太……」

伊作が案じるように私を呼んだ。

「行くぞ、小平太」

長次が促すように私の背を押す。

「だって、朔が……」
「まったく、いつまで言ってるんだ」
「仙蔵、でも」
「朔なら大丈夫だろ、ひとりでも」
「でも留三郎、朔はひとりでできるかもしれないけど、僕らが放っておくのは違う」
「お前までそんなこと言うのか?」

呆れたように留三郎が溜息を付いた。

「むしろ朔のくせに唯歌さんに心配させる方がどうかと思うがな」
「……留三郎、本気で言っているのか?」

何を、言っているんだ。

「朔は、ひとりが嫌いじゃないか」
「そうだったか?」

世界が揺れる。そんな感覚に身震いする。何かが警鐘を鳴らす。気付けと。この正体に。早く、早く。

「そうだ!あいつは…!!」

ひとりは怖いと呟いたあの日。
薄暗い部屋で、誰よりも小さな身体をぎゅっと抱きしめるように膝を抱えて蹲っていた。
泣き虫で、男のくせにと思っていたのに、その日丸みを帯びた頬は乾いていて。
弱さも強さも脆さも、互いに全部近くで見て育った。私たちは同じ世界で、共に育った。なのに今、あいつは側にいない。いないことを、誰も奇妙に思わない。その理由を、知らないことを知ろうとしない。
何故?

「ね、小平太。一緒に行きましょう?」

私の腕を取り、甘い声が私を呼んだ。

「朔くんのこと、怒ってるわけじゃないの。でも今日は…私六人で行きたいな?」

伊作は行かないんでしょう?ちらりと伊作へ視線を投げて、天女様はさも当然のようにそう言った。

「……ええ。僕は、今回はご遠慮します」

伊作が、淡く笑った。
そう言えば、伊作は言った。自分が側を離れれば、天女様に不運は降りかからないと。だから大丈夫だと。
待て、そもそもどうしてそんな話に――。

「じゃあわたし、安心して行って来るね!」

明るくはしゃぐ彼女に、耳を疑った。「安心して」?

「小平太、行きましょう?」
「…いや、私もやめておく」
「え?」
「気になる、ことがあるんだ」

仙蔵たちは何か言いたげな顔をした。天女様は不満げに唇を尖らせた。けれどそれまで。その姿が、消えたのは早かった。

「小平太、よかったの?」

伊作が気遣わしげに声を掛ける。

「僕に気を使わなくても良かったんだよ?」

朔のことがあったから、伊作は自分に気を使ったのだと思ったようだった。だが、違う。違うんだ。

「小平太?」
「朔を、」
「え?」
「朔を、探さないと……」

うわごとのように呟いて、私は踵を返した。探さなければ。あの朋輩を。私の知りたいことを知っている、アイツを。


何が見えるかお立会い!
(20121002)

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