「大失敗」と言えたなら

蓮咲寺朔という人は、僕らが知る限りずっとあの学年で『最弱』と呼ばれていた。

周囲と比べても小柄で細身。尚且つ常にへらりと笑っているような、声を荒げて怒りを露にするなど考えられない、どこか頼りなくも温厚な先輩でしかなかった。
その人が、怒りを込めて声を荒げる。その姿に、僕は少なからず驚いていた。

善法寺先輩。学園一の不運を誇る、保健委員長。その人を天女様の不用意な言葉が傷付けたのだとそう言って。
肩を震わせ、どうしてそんなことを言うの?何のことを言っているの?と天女様はその大きな瞳で訴える。けれど蓮咲寺先輩が譲ることは結局なかった。
こんなに美しくて優しくて、そして真っ白なひとが誰かを傷つける?それは僕でなくとも疑問を覚えざるを得ない主張。

「どうして蓮咲寺先輩ともあろう方が、あんな言いがかりを……」と滝夜叉丸が不安と疑念混じりの声で囁く。
でも相手は六年生で、同じく六年の立花先輩たちが彼女を窘めている。それなら僕たち四年のすることは、天女様をお守りして、慰めることがきっと一番大事なんだろう。
そう思ったのは他の三人も同様で、滝夜叉丸が白湯を持って戻ってきたかと思えば、三木とタカ丸さんが交互に天女様の背を撫で落ち着くように宥めていた。

どうにも僕はそういうことがあまり得意ではない。だからこんな時は歯がゆく思う。つい余計な一言を口走ってしまわないようにと意識して口を噤んでいれば、どういうわけか六年生たちのことが気に掛かった。視線を天女様に向けたまま、耳をそっとそばだてる。

僕は後に振り返る。『天女様』を思って当たり前の心が、どうしてこの時、少なくとも半分くらいは『彼女』たちへ向かったんだろうと。

「長次」

静かに、彼女は中在家先輩を呼んだ。寡黙なその人はやはり静かに一言で応えた。

「…何だ…」
「彼女はきり丸に言ったんだよ?」

一体何を?
一年は組の後輩の顔がふと浮かぶ。ドケチで、明るい一年坊主。それは中在家先輩も同じだったらしく、ほんの些細な仕草ながら少しばかり首を傾げた。確かきり丸は、中在家先輩の図書委員だ。それが何か関係しているのだろうか?

『今まで、辛い思いをしていたのよね?でももういいのよ、我慢しなくても』

慈愛を込めてきっと天女様はきり丸を抱きしめたんだろう。優しいひとだから、まるで自分の痛みのように、きり丸の今までを一緒に抱え込もうとしたんだろう。

「なんてお優しいんだ…」

感銘を受けたみたいに、三木が呟いた。
ああそうだね。ほんとうに、なんてお優しい天女様。なんて――。

「ねえ、教えてよ」

うっとりと陶酔するように、天女様のその様子を思い描いていた僕に、まるで冷や水を浴びせるように響いたのは、蓮咲寺先輩の声だった。

「あの人は一体何を知っているんだい。どんなことを知っていて、その上でそんなことを言うのさ?一体彼女に何の権利があるというのさ?」

何を知っている?そんなのすべてじゃないですか。
どうして?だって彼女は天女様じゃないですか。
天女様とは清らかで、優しくて、美しくて、真っ白な存在で。だから、きり丸の事だって深く思われているからで。
少しの嫉妬を覚えながら、それでも僕らの中でそれは絶対的な答えとして存在していた。はずだった。

「ねえ、教えてよ!」

蓮咲寺先輩が叫ぶ。誰も何も応えない。僕ら四年だけじゃない。きっと先輩たちも答えを知っていた。だけど応えなかった。しん、と静まった食堂の中、天女様だけがきょろきょろと不思議そうに周囲を見回していたことに、僕らは誰も気付かなかった。

何も返らないことに業を煮やしてか、蓮咲寺先輩が肩越しに振り返る。何故か僕は、思わずびくりと肩を揺らした。先輩は天女様しか見ていないようだったけれど。彼女は頭を下げ、小さく謝罪を口にした。そしてそのまま踵を返し、食堂から駆け去っていった。

ぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。その音が消えてなくなるまで、誰も身動きしなかった。
固まっていたわけじゃない。何だか呆然と、先輩たちは立ち尽くしていた。あの立花先輩でさえ。

どれだけそうしていただろう?

「皆、どうしたの?」

何故か明るささえ感じる天女様の声が、僕らを引き戻した。

「大丈夫?ね?滝夜叉丸?三木ヱ門?タカ丸?」

側にいる僕らの名を呼ぶ。そして、くい、と制服の袖口が引かれた。

「喜八郎?どうしたの?」
「え…ああ…いえ…」

何と答えればいいんだろう?「大丈夫だよー」と柔い笑みと共に答えるタカ丸さんを横目に、僕は自分でもよくわからない感情を持て余し、俯きもごもご口ごもる。
助けを求めるようにして、思わず六年生たちを振り返った僕は、立花先輩ではなく何故か七松先輩に目を留めた。

何故だろう?作法委員長である立花先輩の方が、ずっと馴染みがあるはずなのに。何故だろう?そう思って、でも目を逸らせなくて。

七松先輩は、どこか途方に暮れたように立ち尽くしていた。あの、七松先輩が?学園の暴君、体育委員長が?こんなことがあるのかと、滝夜叉丸に訊ねようとしたその時、ふと七松先輩が何かに気付いたように自分の両手へ視線を落とした。驚いたように丸い目をもっと丸くして、先輩は自分の両手、手のひらを凝視している。

その顔から血の気が引いていく様を見て、ようやっと僕らは新たな異変が起きたのだと気付いたのだった。


何か変わっていましたか?
(20120930)

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