やさしい子。

ただひたりと見据え、私は言った。

「私は今、君たちに用はない」

吐き出したその言葉に、ほんの一瞬だけだが天女様を庇うようにして私の前に立ちはだかっていた級友たちがぐっと押し黙った。生まれた僅かな逡巡。それを見逃さず、私は強引に文次郎と留三郎の間に身体を滑り込ませた。

どう足掻いても彼らより小柄なこの体格を恨めしく思ったことはあった。けれどこんな時はつくづく便利なものだ。座ったまま戸惑ったような表情で私を見上げる天女様。彼女と私を遮るものは最早机しかなく、天女様の隣には長次と仙蔵、背後に小平太。先ほどまでの彼女にとっては喜ばしい配置であったのだろうが、今はただ、私から逃れる為には障害でしかないように思えた。

わざわざ同じ高さで物を見て話す、などということは端から頭になかった。立ったまま、私は天女様を改めて見下ろし、にこりと笑みを乗せ、そして彼女に問うた。

「伊作に、何を言ったんですか?」
「え?」

ぱちぱち、と瞳を瞬かせ、天女様は意味がわからないとばかりに首を傾ける。

「あの、朔くん…?何のこと?」

戸惑っていますと言わんばかりの声音。それが演技であるのか、それとも本当に『意図していなかった』のか。
彼女は私の質問の意味を酌むことからしてできないようだった。
ふつり、と胸の奥で暗いものが音を立てた。爪が食い込むほど拳を握り締め、それに気付かない振りをして、私は殊更ゆっくりと、幼子に言い諭すように繰り返した。

「伊作に、何を言ったんですか?」
「あの、だから、朔くん。唯歌、わからないわ」

大きな瞳がうるりと水気を孕む。どうしてそんなに怖い顔で唯歌を見るの?と甘ったるい声を震わせて見せる。
私ではなく、私以外に訴える為。その証拠に、周囲の連中は見事心を動かされたようだった。

「おい朔!やめろ!」

文次郎が叱責めいた声を上げる。それすら煩わしくて、今はそれもどうでもよくて、私はただただ、繰り返す。
この女が、答えるまで。

「伊作に、何を言ったんですかとお訊きしているだけでしょう?」

自分の声であるはずだが、無機質さすら漂うそれに、場が静まる。しかしそれも僅かな間だけだった。

「そ、そんな言い方しなくても…」

俯き肩を震わせるかよわい少女。それで?それがどうした。
顔を上げさせようと腕を伸ばした私の意図など知らないはずだったけれど、その手首を掴んだのは慌てた顔をした伊作だった。

「い、いいよ朔!僕はいいから!」

ああいつかの逆じゃないか。これでは三郎の事を窘められない。そんなことが頭を過ぎった。けれど、止めるつもりはなかった。

「離せ伊作。私はこの人に訊いているんだ」
「でも…」

何か言おうと口を開くものの、言葉が見付からないらしい伊作の手が気を取られたその間に緩む。
その腕を払って私は天女だけを見ていた。

「貴女は伊作に何を言った!?」
「朔!止めろ!!」

文次郎が私を押し戻す。天女様と私の間に仁王立ちになり、ぎろりと睨みつけてくる。来るならくればいい。私は正面から、睨み返した。

「そこを退け文次郎!私は今、その女に用があるんだと言っている!」

張り上げた声に文次郎がたじろぐ。
だんッ、と机を叩く音に、有村唯歌はびくりと大きく肩を震わせた。怯えたような涙の滲む瞳。
助けを求めるように、長次の制服をちょんと掴むその姿は、覚えのない言いがかりを付けられている自分こそ被害者だと全身で周囲に訴えていた。

苛々する。苛々する。苛々する。
こんな女にと、吐き気と怒りがこみ上げる。
私の可愛い後輩たちのみならず、私の大切な友人にまで、と。
この後に控えた私自身が張り巡らせた策があった。その為に、今は冷静であれと囁く自分もいた。わかってる。だけど。

「貴女が伊作の何を知っていると言うんですか。貴女が伊作に何をされたと言うんですか。貴女に伊作が何かしたとでも言うんですか!」
「朔!落ち着け!!」

後ろから両腕を掴むようにして押さえつけられる。

「落ち着け!」

耳元で聞こえた小平太の声に、ハッと我に返った。
天女は両手で顔を覆い、肩を震わせていた。射抜くような視線が四方から私へと向けられる。やってしまったと思いはすれど、後悔する気にはなれなかった。
仙蔵が入り口で成り行きを見守っていたらしい四年生を手招き、天女様を少し離れた席へと移させた。
残った六年はと言えば、相変わらず押さえられたままの私をぐるりと取り囲む。決して穏やかではない空気がじわりと広がるのを感じつつ、顔を顰めた。

「……小平太。離してくれないかな」

別に逃げやしないよ。
加減はしているのだろうが、それでも小平太のある程度の力で拘束されてはどうにも身動きが取り辛い。
しかしその私の訴えは、仙蔵にあっさり却下された。

「構わん小平太。そのままいろ」
「何でお前が決めるのさ?」
「うるさい。どういうつもりなんだ、お前は」
「何が」
「どういうつもりがあって、唯歌さんにあのような物言いをした?」
「……お前、今まで何を見てたの」
「全てを見た。お前が傷付いている唯歌さんを更に追い詰めるのをな」

思わず笑い出したくなった。傷付いてる?あの人が?じゃあ彼女に傷付けられた人たちは、最早傷付いているなどと呼べる段階ですらないということになるけれど?

「彼女を追い詰めたというのなら、謝るよ。だけど言った事は取り消さない」
「何?」
「仮に彼女に他意がなかったとしても、言っていいことと悪いことくらい区別もつくだろう?」
「何を言っている?」

仙蔵が訝しげな顔をする。

「朔…」

もういいんだよ、と言いたそうに、伊作が私を呼ぶ。

「仙蔵、元々は僕が悪いんだよ。だからあんまり朔を責めないで」
「……ッ」

こんな状態を引き起こしたのは、私だ。それでも伊作は、私を庇おうとする。

「しかし…」
「僕も唯歌さんに謝らなきゃ…」

その言葉に、天女様を伺い見た。けれど四年生たちに必死に宥められ、白湯を口に含んでいる所だった彼女はこちらに一瞥だにしなかった。
けれど伊作は、その背中に向かい、静かに口を開いた。

「唯歌さん。すみません。今回の事は全部、僕が原因なんです。だから、朔のこと、できればあまり悪く思わないでください。……僕は……僕が、貴女の側からしばらく離れます」
「伊作?」

留三郎が面食らったような顔をした。何を言い出すんだ、と。

「そうすれば、きっと、貴女から不運は遠ざかるから」

寂しげに、悲しげに、それでもそれを隠すように、伊作が笑んだ。

「大丈夫ですよ。だって貴女は天女様だから」

また動いた状況を飲み込めず、戸惑ったような顔をしたのは、六年ばかりではなく四年も同様。皆伊作を見るが、誰も何を言えばいいのか訊ねればいいのかわかりかねているらしく、視線だけがそこらかしこを彷徨っていた。
小平太も無意識にだろう。私の押さえていた腕を離した。
自由になったはずの私の両腕は、重力に逆らうことなくぱたりと落ちた。
こんな時でも尚、私を思い、天女を思った伊作の笑顔が、私に突き刺さった。

――ねえ朔。僕の不運は、移るのかな。

問いただした私に、ぽつりと零したその一言。馬鹿らしいと笑い飛ばす事は簡単なはずだったのに、私と向き合いながらも私を見ていない瞳に、それができなかった。

――僕のせい、かな?

何が、なんて訊かなくてもわかった。わかって、しまった。
散らばった薬包。落ちた花と、薬草の匂いが混じり、ふわりと甘く香った。その匂いには覚えがあった。昔新野先生に二人で教わった、薬草茶のひとつ。

――ねえ朔。だとしたら、僕は何ができるかな。

うっすらと隈の浮いた目元。この薬草茶は、ほいほいと簡単に作れる類のものではなくて。誰の為に、そんなの、ひとつしかなくて。

――ああ、ごめんよ。

伊作の目が焦点を結び、かと思えば何故か私に謝って、伊作は薬包を拾い集め始めた。その背中が、今天女様に頭を下げた彼のそれと重なって見えた。

「……伊作、ごめん……」

ぽつりと落ちた私の声は、彼の耳に届いたのだろうか。


君が。君こそが。
(20120923)

[ 56/86 ]

[] []
[目次]
[しおりを挟む]

×