動く時を望むには早くても、
花のかんばせは曇ったまま、まさに清浄を具現化したかのようだった彼女の笑みを見た者は、私を含めここ数日いない。 花や菓子、簪に櫛。反物、絵巻。 彼女の心を休めるであろうとかき集めたそれを差し出しても、彼女は弱弱しく微笑うのみ。 元々線の細い女人だった。けれど心労からか、丸みを帯びた頬や肩が心なし更にほっそりとして見えた。 いつも離れに籠もっていては晴れる気持ちも塞ぐばかりだろうと、連れ出したのは結局馴染んだ食堂。 昼食が終わり、夕餉の支度に掛かるまでのその僅かな時間、人の気配も薄れるそこで見聞きした面白おかしい話を彼女――唯歌さんに語って聞かせていた。 「……で、この馬鹿が」 「おい馬鹿とは何だ馬鹿とは!」 予算会議での用具委員会の漆喰鉄砲の話を披露した文次郎に、留三郎が噛み付く。単なる日常の応酬。けれど私はそれを制止した。 「おい、止めないか」 今の唯歌さんにとって、二人が遣りあう姿さえ、あの夜を思い出させてしまうかもしれない。そんな懸念が私に口を挟ませる。 当の二人もその意図には気付いたようで、はっとしたように黙り込んだ。 落ちたのは笑いではなく沈黙。上手くいかない。それがもどかしく、己が腹立たしかった。 それはこの場に居合わせた者の総意に違いなかった。私のみではなく、文次郎、留三郎、長次、そして腕を組みじっと唯歌さんを見つめている小平太。その後ろ、食堂の入り口では紫の制服たちがちらちら顔を覗かせていた。腕には各々やはり菓子やら花を抱えているところを見れば、考えることは同じと言うことか。 いや、考えるまでもないだろう。 我らの唯一の存在、清らな天女様。その唯歌さんにみすみす危うい思いを味わわせてしまったのだから。 曲者の侵入を許し、その身を一時とは言え曲者に預けてしまった。どれだけ悔やんでも悔やみきれない。彼女の心が負った傷はいかほどか。 さぞ怖ろしい思いをしたのだろう。あれ以来、塞ぎこんでしまうことも当然と言えば当然だった。 守りきれなかった私たち。けれどそれをいつまでも引きずるわけには行かなかった。彼女の傷を癒し、また一日でも早くあの笑顔を取り戻す事。それが今、我々に課された使命に違いない。 しかし。 「唯歌さん、疲れていますか?」 少々強引に連れ出してしまっただろうか。どこか顔色の悪いその様子にそんな懸念が過ぎった。一刻も早く、とは思う。けれど焦って彼女を苦しめては本末転倒というものだ。 声を掛けた私を見上げ、唯歌さんは儚げな微笑を浮かべたまま、首を振った。 「大丈夫よ、仙蔵。皆も、唯歌の為にありがとう」 「……ッ」 こんな時でも、彼女は己ではなく私たちを気遣ってくれるというのか。その姿に、私たちはきっと救われているのだろう。 「唯歌さん」 留三郎が彼女を呼んだ。 「最近、その…眠れてはいるんですか」 「……大丈夫よ」 「その、もしよければなんだが、伊作に頼んで落ち着く作用のある薬湯を煎じてもらってはどうだろう?」 「ふむ、なるほど…。それはいいかもしれないな」 留三郎が口にした提案は、名案に思えた。そうだ、それがいいだろう。文次郎と頷きあって、ふと私はこの場に伊作の姿がないことに気がついた。 「留三郎、その伊作はどうした?」 「ん?…あれ、そういやいないな」 留三郎も今気付いたと言わんばかりに首を傾げた。ぐるりと周囲を見回すが、文次郎と長次も同じような反応を返すだけだった。 「小平太?」 そんな中、小平太が何事か思案するように首を傾げていた。 「どうした?」 「え…。ああ…いや…」 「何だよ、お前らしくもねえ」 文次郎が呆れ顔で「はっきりしろ」と促す。 小平太は首を傾げたまま、それでも口を開いた。 「伊作なら、唯歌さんのところに行ったと思ったんだが…」 「は?」 留三郎が目を瞬かせる。 「来てないからどこ行ったんだって言ってるんだろ?」 「そうなんだが、私は唯歌さんのところへ行ったと思っていたんだ」 「お前の勘違いだろ?」 留三郎の言葉に、小平太は何を返すでもなく口を噤んだ。顔上げたその目が、無造作に唯歌さんを見つめた。 「唯歌さんは知らないか?」 「え…」 戸惑ったような顔。一体こいつは唯歌さんに何を言わせたいのか。 「知っていたら話してくださるはずだろう」 「……」 そんな必要もないのに申し訳なく思ったのか顔を伏せてしまった唯歌さんを慰めるように、長次がそっと落雁を差し出した。 誰ともなく零れた溜息。一体どうすればいいのだろう。そんなことを思ったまさにその時。静寂を破るようにして、荒々しい足音が廊下の向こうから近付いてきた。 その音は着実に近くなる。食堂を目指しているのは間違いなく、二つの声が何か言い争うように付随していた。 何事かと座っていた唯歌さん以外の人間が腰を浮かし入り口を見つめる先で、戸惑った顔の四年生を押しのけるようにして現れたのは、まさに話題の当事者であった伊作と、そしてもうひとりの級友、蓮咲寺朔だった。 「伊作、朔。お前たち一緒だったのか」 丁度いい。探す手間が省けたというものだ。伊作が来たなら薬湯の話ができる。朔もあれで薬草には明るいから二人揃っているなど好都合だ。そう思った私を余所に、朔は大股でずかずかと私たちのところへやって来た。その後を伊作が慌てたように追いかけてくる。 「……朔?どうしたんだよ、お前」 留三郎が怪訝な顔をした。けれどその問いに朔は答えなかった。 朔は、珍しい事に無言で表情もなく私たちを一瞥し、ついでその視線を唯歌さんへと向けた。 そしてにっこりと笑い――。 「どういうおつもりですか、天女様?」 「……え、何の、こと?」 「私は、どういうおつもりかとお聞きしているんですよ」 笑っていた。朔は笑っていた。むしろ穏やかな声音。しかしそこには詰問するような響きが滲んでいた。 「朔、待て」 「何だい仙蔵」 私の方を見ることなく、その目はひたりと唯歌さんに据えられている。 「何のことを言っているのか知らんが、唯歌さんが怯えている」 「……へえ?で?」 「止めろと言っているのがわからないのか!?」 唯歌さんを庇うように、文次郎と留三郎が朔との間に割って入る。 それをちらりと見るや否や、朔は押さえたように低い声でこう言った。 「天女様のこととなると、よく動く体と頭だね」 「……何?」 「一度しか言わないよ。そこを退いてよ」 私は天女様に用がある。それは君たちじゃない。 真っ直ぐに挑むように見つめるその目に、何故か一瞬怯んだ、気がした。 譲れぬものを知るならば (20120919) [目次] [しおりを挟む] ×
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