その先が蒼天ならば

嵐の後には、晴天が。

…といかないのは、あれが嵐と呼ぶにはいささかお粗末な代物だったから、だろうか。
野分、とすら言えない風。けれどそれは確実に、次の風雨を誘い込む呼び水にはなっただろう。
なってもらわないと困るのはこちらなのだけれど。

溜息とも呼べない息を吐き、ひとりなのをいいことに廊下の真ん中で盛大に肩を回した。
実戦に出れば、自ずと神経は張り詰める。今回の件もそうには違いないのだけれど、ほとんど茶番のようなあんなものでも知らず知らず不必要な力が入っていたのだろう。あれから数日経った今も、どうにも両肩が強張って仕方ない。

嫌なんだよねえ、肩凝りとか。頭痛まで招いてくれるから。

報告書を片手にぶちぶち零していたら、居合わせた五年生たちが皆各々妙な顔で私を見ていた。
五人を代表してか、小さく挙手した勘右衛門が一言。

『先輩、それは微妙に違うと思います』
『え?何、頭痛は別の要因てこと?』

天女とか天女とか天女とか?
まあそれもあるだろうねえ、と返せば、珍しく不機嫌な顔をした兵助がずい、と身を乗り出してきた。

『ちょ、兵助?どした?』

いくら見慣れた後輩のものとは言え、学園内でも美形の部類に堂々と入る久々知兵助の顔をいきなり突きつけられて、思わずたじろぐ。そんな私を気にも留めず、兵助は私が手にしていた筆をするりと奪った。

『何でなのですか』
『何が?』

含ませた墨が垂れやしないかと筆先を見遣りつつ問い返すと、兵助は顔と同じく不機嫌な声でこう言った。

『何故先輩が、後始末までお一人でしなくてはならないんですか』

首を傾げ、改めてぐるりと後輩を見回す。兵助の言葉に一様に頷く姿に、意味を飲み込み、遅まきながら『ああ』と理解した。
自然浮かぶ苦笑に、後輩たちはぶすくれた顔をしてみせる。
気に入らないのはつまり、今回の『事件』の後始末――各種報告書やら破損箇所の調査などを一手に引き受けていることか。

『あんな所を見て、尚且つ朔先輩しか戦えなかったのに。それなのにそんなことまで先輩が一人でなさる必要などないでしょう』

私はなんと答えただろう?曖昧に笑った記憶はあるのだけれど。
たった一夜のあれだけで、すべてが片付くとは思っていなかったし、多少現実を知ってもらえれば今回は上出来。そのはずだった。
実際、あの夜以降、天女様はほとんど自室に籠もりっきりだ。六年連中を筆頭に、天女様の取り巻きと化していた連中は彼女を怖がらせないようにと少し距離を置いている。そのまま己が何者であるのか思い出すとまで、物事は都合よく運びはしないが、開いた距離の分だけほんの少しでものぼせ上がった頭が冷えれば儲けもの。そう思ったけれど。

この件で私に誤算があるとするのなら、天女様のあの三郎への執着だろう。あの時、天女様の奪還を五年生たちに任せたこと。侵入者たちの頭と思しき男を私が追ったこと。それ自体は間違った選択だとは言わない。私にとって、あれはあの場の最善だった。だけれど、五年生――特に三郎にはそうではなかった。何があったのか、誰も言わない。無理に聞きだすつもりはないけれど、あの時天女が何かしらしでかしたのだろうことは薄々気付いていた。

あの奪還以来、三郎は塞ぎ気味だ。私の側にいれば私に、そうでなければ五年の誰かに張り付いていることが多い。落ち込んでいるとか悲観しているとか、そんなものではなかった。溢れそうになる殺気を抑えようと、ただじっと堪えている。それを感じるからこそ、私たちは何も言わなかったし三郎の好きにさせてやった。特に五年生たちにとってそれは、己の気持ちでもあるように、五人の後輩たちはただ静かに寄り添っていた。

――ああ、次の手を進めないと。

ふと、今自分がいる場所が廊下のど真ん中であることを思い出す。
ふわりと吹く風に顔を上げれば、穏やかな青空が広がっていた。午後も半ばを過ぎた学園は、いっそ状況には似つかわしくないような穏やかな空気を纏っていた。何も変わらない、あの日のまま。

遠くに、先生と下級生の声がする。実技の時間なのだろう。叱咤する声と、幼いながらも真摯な返答。そして授業のない子たちが駆ける軽い足音。
何も変わらないのだと錯覚しそうになる。
実際はまだ『始まった』ばかりで、私は幼い後輩たちだけではなく、ひとつ下のあの子たちのことだって守ってやりたいと思っている。それが驕りだと言われればそれまで。だけど。

――進みなさい。

ふと、懐かしい声が頭を掠めた。柔らかく、強く、懐かしい声。

――あなたは前へお行きなさい。

前へ。前へ。振り返ることがあっても、前へ。そうすれば、いつかどこかに辿りつく。いいのか悪いのか、見極めるのはそれからだ。
大きく息を吐き、それから私は、手にした報告書を学園長先生に届けるべく、再び歩き出した。

しかしその足は、庵に行き着く前に再び止まることになった。

「……伊作?」

私と同じく松葉色の装束に身を包んだ姿を見つけたのは、彼が私の進行方向にいたからに他ならない。伊作は外に面した廊下に腰をかけ、ぼんやりと何かを見つめていた。
ひとりなのかな、珍しい。そう思って首を傾げた。伊作が見つめる先には何もない。あるのはそれなりに高い塀くらいで、別段変わったところも見受けられない。
一体何してるんだろう?

「伊作?」

どうかしたのかと、名前を呼んでその肩に何気なく触れた。拍子に、伊作は大袈裟なまでにびくりと肩を震わせ、弾けた様に振り返る。
がさりと音を立て、伊作が抱えていたであろう荷物が、土の上に落ちた。
けれど落ちたよと、言ってやるより先に、私は咄嗟に息を飲んだ。

「……ッ。い、さく…!?どうしたの!?」

肩を掴み、揺さぶり、問いただす。彼の顔は、幽鬼の様に青かった。


嵐さえ招いてみせるけれど、

[ 54/86 ]

[] []
[目次]
[しおりを挟む]

×