薄氷の上を僕は行く

嵐のようにやって来た友人は、快活な笑顔を残しやはり嵐のように去って行った。
忍らしからぬ豪快な足音が次第に小さくなってついに聞こえなくなる。
小平太がいなくなっただけで随分静かになった部屋の中、僕は我知らず溜息を零した。

ああそうか、僕だけじゃなかったんだ。

あの違和感とか、朔の姿が気に掛かっていたのは。
同じことを感じている人間がいる。そしてそれが、野生的とも言える直感を誇る小平太で。その事実が、ここ数日僕の心を覆っていた靄のようなものを少し晴らしてくれた。
ああそうか、僕が可笑しかったわけじゃないんだ。
何度誰に尋ねても、そんなことはないと言われ、終いにはお前が大丈夫かと逆に心配される始末だった。最初こそそうじゃないと半ば反発染みた様に首を振っていた。どうして気付かないんだとじれったく思っていた。だけど何をむきになっているんだと言われ始めて、僕はそれ以上反論する気力を失っていた。

何かが可笑しい。僕が可笑しい?

いっそすんなり納得できれば楽だったんだろう。朔も、僕も、何も可笑しいところなんかないんだ。僕の、思い過ごしだって。だけどどうしてもそれができなかった。
僕は手元へ視線を落とす。五つ六つ、料紙に包まれた小さな包み。心を落ち着ける作用のある、薬草を合わせたものだった。これを煎じて飲めば、唯歌さんの気が少しは休まるかもしれない。

たとえばそれは気休めかもしれない。僕の自己満足に過ぎないのかもしれない。だけど、これが今僕が彼女にできる精一杯だから。
保健委員長として、いや善法寺伊作として。彼女に対してできることがあるのなら、僕はそれをしたいと思う。

つまりはそう言うことなんだ。朔に対しても。あの泣き出しそうな顔をしていた小さな友人。僕らの誰よりも非力なはずの友人。
朔の顔を、思い浮かべようとしても、何故か浮かぶのはあの日の笑顔ばかりだった。

「……あ。そうだ」

じっと手元を見つめていた僕は、ふと顔を上げた。そうだ、それがいい。

「朔にもこの薬草茶、持って行ってあげよう」

朔ならきっと喜んでくれる。多分、いや絶対に笑って受け取ってくれる。
思いついた名案に、僕の心は自然と弾んだ。薬箪笥というには小さな箱を引き寄せ、唯歌さんに用意したものと同じ薬草を取り出す。
知らず知らず笑みが浮かぶ。これで少しでもあの子の気持ちが晴れるなら、なんて簡単な事だろう。

「……できた!」

朔の為に合わせた薬草茶も料紙に包み、懐へ仕舞う。唯歌さんの分は竹籠に移し、それから留三郎が昨日摘んで来た薄紅色の花を添えた。
これを唯歌さんに届けて、それから朔の所へ行こう。何故か踊る心の意味を、この時僕は深く考えることもしなかった。
彼女に会える、話をする口実ができる。少なからずそんな理由があったのは確かで、あの日心を痛めた『彼女』を思えばざわついた僕の心が、晴れることを期待していたのも本当。

きっと、いつものように笑ってくれる。優しいあの人なら。
そう信じて部屋を出た僕の足取りは軽かった。その後に待つものになんて欠片も気付いていなかったから。

僕が『何』であるのか忘れていたから――。


忘却には代償を
(20120802)

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