君へ向かうよ、僕ら



『あの日』から、ちりちりとくすぶり続けているものがある。


胸の奥の、更に深い場所に、小骨のように引っかかって抜けない何かがあって、それが何か、私は今も探りかねている。
奇妙なその感覚は、不快感にも似ていたけれど、どうにもこうにも正体がわからない。長次に尋ねてみようかと、何度かそう思ったけれど、同室の友人の顔を見ると一体どう説明すればいいのかそれすらわからなくて、結局私は何でもないと自分に言い聞かせて飲み込んできた。それでも、気持ちが悪いことに変わりない。

いい加減うんざりして、そんな時にふと思い立ったのは保健委員長の顔だった。細かいことを気にするなど、私らしくも無いけれど、伊作は笑い飛ばしもしないだろう。
思い立ったが吉日とばかりに、その放課後、どかどかと足音を立てて、私は級友の部屋の前にやって来た。

「伊作、いるか?」
「どうしたの?小平太」

返事を聞いたのと障子を引き開けたのは同時。相変わらず薬臭い部屋の奥から、伊作がひょいと顔を出した。

「何か用?」

不思議そうな顔をしつつも、「座ったら?」と促されるままに、私は伊作の正面に腰を据えた。久しぶりに足を踏み入れたその部屋は、相変わらず薬草やら製薬道具やら、コーちゃんやら伊作らしいあれこれがごちゃごちゃとそこかしこにあった。
何となくきょろきょろと目を動かしていると、伊作が笑う。

「何か探してる?留三郎ならいないけど?」

確かに留三郎の姿は部屋にはなく、聞けば食堂だと言う。

「ああ…唯歌さんのところか」
「そう。今日は、留さんと仙蔵がついてるよ」

伊作が目を伏せ手元に視線が落ちる。いくつか料紙の包みがそこにあった。

「気分を落ち着かせる薬草茶だよ。僕にできるのは、これくらいだから」

自嘲気味な笑顔で、伊作がそう言った。
唯歌さんを狙っての襲撃があったあの夜から、数日が経っていた。あの夜から、唯歌さんは塞ぎ気味だ。
あれほど明るく優しい笑顔を浮かべて食堂で私たちを待っていてくれた唯歌さんが、部屋に閉じこもり過ごすようになった。

曲者に捕らわれるなどという怖ろしい目に合ったのだから、当然だと仙蔵は言う。私たちが皆で揃って顔を見せることも、きっと今の彼女には重荷となってしまうのではないかと言い出したのは、留三郎だったか。
だから私たちは、交互に彼女の様子を見に行く事に決めた。今日は留三郎と仙蔵が。確か、長次と文次郎は街へ出て、唯歌さんが喜びそうなものを買ってくると言ってたっけ。

「で、小平太はどうしたの」

ぼんやりとそんなことを考えていた私は、伊作の声でハッとした。

「あ、ああそうだ。伊作に聞きたい事があってな」
「僕に?何だい」
「伊作は保健委員長だろう?だからわかるかと思ったんだが」
「何?」
「朔が、笑ったんだ」
「え?」

ぱちぱちと目を瞬かせ、伊作は困ったように首を傾げた。

「朔が?えーと…そりゃ、朔だって笑うだろう?」

朔だって人間なんだし、笑いもすれば泣きもするだろうと伊作は言う。

「ていうか、朔なんて僕らの中でも結構表情変わる方じゃない。昔っから。今更どうしたの」
「いやそうなんだが…そうじゃなくて…」
「小平太?」
「この間の、襲撃の晩なんだ」

苦笑混じりに私を見ていた伊作が、少しばかり表情を改めた。

「あの晩?」

文次郎や留三郎が歯の立たなかった相手を容易く沈め、そうして問い詰めた私に朔はこう言った。

『……私はいつも通り戦っただけ。私が強くなったと思うなら、君たちは弱くなったと思うの?』

どう言う意味だと尋ねた私に、朔はただ一言。

『そのままだよ小平太』

そうして、朔が笑った。

「…………」
「なあ、伊作。あの時私は朔が泣きそうだと思ったんだ」

何故だろう。笑っているのに、『いつも通り』笑っていたのに、私はアイツが泣きそうだなんて思ったんだろう?
あれから朔は、顔を合わせても別段変わった様子もない。だけどあの笑顔がチラついて離れない。

「私はどこかおかしいんだろうか?」

黙って聞いていた伊作は、緩く首を振った。

「おかしくは、ないと思うよ」

奇妙な間を置いて、伊作は何度か床と私を見比べるように視線を動かした。それからぐっと拳を握り、何か、心を決めたような顔で伊作は口を開いた。

「小平太。あのね、僕も、そう思ったんだ」
「え?」
「朔が、泣きそうだって。あれからずっと、考えてたんだ。何でだろうって」
「伊作も?」
「留三郎にも言ってみた。だけどそんなことはないだろうって。だからあれはきっと僕の思い過ごしだって思った」

伊作は大きく息を吸い込んだ。私が思わず背筋を正すほど、予想外に真摯な目がこちらへと向けられた。

「でもそうじゃないんだ。小平太もそう思うってことはそうじゃないんだよ。朔はあの時、何でかわからないけど『泣きそう』だったんだ」
「……ああ」

何故だか理由はわからない。だけど朔が泣きそうだったのは事実だ。そう言われたことで、我知らず肩の力が抜ける。
ああそうか、私がおかしかったわけじゃないんだ。そう思えば、自然笑みが浮かぶ。例え理由がわからなくとも、事実がそうならば朔に訊けばいい。「何でもない」と言うかもしれないけれど、本当に何でもないのか直接顔を見ればわかるだろうし。

「そうか…。ありがとう伊作!」
「え、小平太?」

問題は片付いたとばかりに勢いよく立ち上がった私を、慌てたように伊作が引きとめる。今度はこちらが不思議な顔をする番で、「どうした」と訊ね返せば、まだ話は終わっていないと座るように促された。

「終わっていない?何がだ?」
「何がって…朔のことだよ。ほんと細かい事は気にしないというかいけどんなんだから……」

割と失礼な事を言いつつ伊作が溜息を吐く。

「だから何がだ」
「ああ、うん。朔のことなんだけど」
「ん?」
「あの晩の襲撃にいち早く気付いたのが朔だって、小平太は知っていたかい?」
「……朔が?伊作じゃないのか?」

記憶を辿れば、私は伊作からそれを知らされた。けれど伊作は。

「鉢屋が言ってた。朔が気付き、動いてるって」
「…鉢屋が?」

そう言えば、駆けつけたその時、あの場には朔の他に五年がいた。

「何でだ?」

湧き上がるのは疑問。
何故、朔は五年に知らせた?私たちの方が近いじゃないか。後輩に知らせるよりも余程。第一同じ長屋に寝起きしているのに、一声掛ければそれで済む……。

「……なあ伊作。朔はあの晩、どこにいたんだろう」

あの晩。あの日。いや。
伊作が緩く首を振る。

「僕は、それを知らないんだ」

あの晩、あの日。その前の日も、更に前の日も。

「僕らが唯歌さんと過ごしていた間、朔がどこで何をしていたのか、僕は知らないんだ」
「私も知らない…」

言われて初めてそれに気付いた事に驚いた。いつもいつも四六時中張り付いていたわけじゃない。だけど私は朔が何をしているのか全く知らないなんてことはなかったはずだった。

あれ?

朔は、どこにいた?朔は何をしていた?どうして朔だけが、襲撃に気付いた?朔は――今、どこだ?
咄嗟に、わけもわからず周囲を見回した。いるはずの無い姿を、わかっていながら探した。
何だ?何なんだこの違和感。

「伊作のせいだぞ」

低く呻るようにそう言えば、伊作が顔を顰めた。

「僕のせいじゃないよ。大体僕にもわからないんだし」
「私も伊作もわからないんじゃ、意味がないではないか」
「そう言われても」

伊作が肩を落とす。しかし打たれ強い不運委員長は即座に顔を上げた。

「でもわかってることもあるよ」
「わかってること?」
「うん。何かがおかしいんだ」
「おかしい?」
「僕や小平太が気付いても理由がわからない何か。留三郎たちがまだ気付いていない何か。それが確かにあって、それがきっと『おかしい何か』なんだよ」
「つまりこう言うことか?違和感の原因があって、それがすべての大本だって言うのか?」
「だってそうじゃないと説明できないでしょ」
「朔ならそれを知ってるだろうか」
「それはわからないけど…」

知っていても、朔は僕らに教えてくれない気がする。

「朔だぞ?」
「朔だからだよ」
「……何だそれは。保健委員の勘か?」
「ううん。善法寺伊作の勘。というか、蓮咲寺朔の友人の勘、かな」

泣きたかったくせに、その理由も言わずに笑ったアイツの顔が過ぎった。

「私たちが自分で探るしかないということか」
「そうだね。しかも当面は僕ら二人で」

また珍しい組み合わせだけどねえ。

「まあ何とかなるだろ。細かい事は気にするな!」
「体育委員長の勘かい?」

悪戯っぽく、伊作が笑う。

「七松小平太の勘、だ!」
「だろうね」

情報を集める事もまた忍者の本分だ。何から始めるか。そう思いつつ頭の片隅で何だか久しぶりだと思う自分がいる。

「小平太?」

立ち上がったまま動きを止めた私に、伊作が「どうかした?」と首を傾げる。

「いや…うん、何でもない。そうと決まれば早速動くぞ」
「了解」

言葉通り、私は一旦自室へ戻るべく、伊作に短い礼を伝えて部屋を出た。何かが解決したわけでもないのに、不思議と心なし足取りは軽かった。


知ってるはずの知らないことを探して
(20120725)

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