最弱と、ひとは呼ぶ。
「助けて、三郎!」 空気を切り裂くように響いた耳障りな声に、真っ先にぴくりと反応したのは名指しされた三郎だった。 丁度間の悪い事に、三郎は顔を覆っていた頭巾を下げていて、いくら夜闇の中とは言え、側に立つ俺たちにはその表情がしっかりと見て取れた。まさに鉄壁の無表情。感情を排した仮面のようなそれ。 「あーあ…」 思わず俺の口からこぼれたため息に、雷蔵は肩を竦め、八は苦った顔をし、兵助は醒めた目を天女へ向けていた。 示し合わせたわけでもないけれど、俺たちの思考は一致していた。 馬鹿な天女。 三郎は完璧を求める。その探究心や向上心が、言うなれば学園きっての変装名人と称される鉢屋三郎を作り上げたわけで、だからこそ三郎は、変装した相手の一挙一動を演じて見せるのだ。 第二の顔と言っても過言ではない、雷蔵のそれを被っている時であっても、任務中の三郎は『三郎』であると同時に『双忍』であることを忘れない。仮面を顔に――紛い物に命を吹き込むように、三郎は立ち回る。その三郎が、感情を消した。 天女は、消さなければならないほど不快感を三郎に与えたということだ。 もっとも、それは三郎に対してのみならず、空気を読む能力が欠損しているとしか思えないその言動は俺たちの神経をも逆撫でしていく。 敵に捕らえられ、刃を突きつけられているというのに、三郎だけを映す瞳は闇の中で爛々と輝き、口元には笑みすら浮かんでいた。 何なんだよこの女。気持ち悪い。喚くその口から飛び出す「三郎」という名には歓喜が滲んでいた。 心底三郎に同情するよ。何がどうなってこの女に気に入られたのか知らないけれど、こんな女に名前を連呼されるなんて俺には耐え難いよ。 …耐え切れてはいないようだけれど。 三郎が手にした苦内を握り直した。その構えに曲者がにやにやと笑う。あの変態は三郎が自分を狙っていると捕らえたらしい。事実視線は曲者へと向けられていたが、構える姿が真実狙っているのは他でもない。 狙うのはまさしく『あの女』。 朔先輩が、そんな三郎の変化に気付かないわけがない。 「三郎…」 視線を曲者、もとい変態に据えたまま、小声で名を呼んで袖を引く。 「大丈夫ですよ、ご心配なく」 「いや、大丈夫じゃないだろう。」 先輩が短く発した一言に目をむいたのは三郎だけでなく俺たちも同じだった。 「君たちは下がれ」 「何を言うんですか先輩!」 その言葉が示すのは、先輩が一人で曲者と対峙するということ。俺たちには補佐に回れとそういうことだ。そんな命をはいそうですかと聞き入れるわけにはいかなかった。 「朔先輩!」 我慢できないとばかりに、ハチが強くその名を呼ぶ。 そこに不快でしかない声が割って入った。 「どうしたの!?ねえ早く助けて!!」 「あの、女ッ!!」 三郎がぎり、と奥歯を噛む。踏み出しかけたその一歩を、それでも先輩は制した。 矢羽音が告げた。 ――下がれ。 明確にして端的なまるで拒絶のような一言が、俺たちを怯ませる。その隙を見逃さず、先輩は三郎を後ろへ押しやった。 不意のその動きに、三郎がらしくもなくたたらを踏む。 先輩が小さく笑う。困ったようにほんの少し眉を下げて。 「朔、せんぱ…」 思わず俺は先輩の名を呼ぼうとして、けれどそれは最後まで言い終えることができなかった。 くるりと俺たちに背を向けたその人は、ひたと曲者だけを見据えていた。す、と纏う空気が色を変える。 「せんぱい…?」 雷蔵が、掠れた声でその人を呼んだ。俺たちのよく知るはずのその人を。 何だ?これは、何?背中をつめたい何かが滑り落ちる。息を詰めることしかできない俺たちは、ただその背を見つめた。 一番小さな、最弱とよばれる彼女の背中であるはずの、もの。 渦巻く殺気は、誰のもの? 曲者がにやにやと笑う。まるでこの状態を楽しむように。先輩は微かに眉を寄せ、苦内を構えた。踏み出すかに思われたその時、先輩は何かに気付いたかのように視線を曲者から外した。そして少しだけ驚いたように目を丸くする。 「七松、先輩…」 七松先輩を筆頭に、血相を変えた六年生たちがそこに立ち尽くしていた。 遠いものを見るように、雷蔵が中在家先輩を見つめていた。ついそちらに意識を取られたのは、俺も同じ。 「私が行きます!」 俺を引き戻したのは悲鳴にも似た三郎の声だった。 「俺たちも戦います!」 ハチや兵助が三郎に続く。けれど、先輩はちらりと俺たちを見ただけで何も言わず、すぐに曲者へと視線を戻した。 ひたり。曲者を映す先輩の視界に、俺たちは入り込むこともできなかった。 ただまっすぐに、朔先輩は、曲者だけを見据え、そして――。 「ッ!朔!止めろ!」 七松先輩のその叫びは、まさしく俺たち全員の心を代弁していた。 あなたを守るひとは誰? (20120629) [目次] [しおりを挟む] ×
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