窺い知るにはまだ早い

風の音は止んでいた。
静かな夜の中、張り詰めた空気と殺気、そして押し殺した息遣いだけが、僕のすぐ側にあった。

視界の端に捉えた、ぎらりと鈍く光る刃に感じるのは恐怖ではなく、むしろ気に掛かるのはそれを僕に押し当てる相手の目的の方だった。
浅い呼吸を数度。
あなたの狙いは学園長か?
そう問いかけようとした僕に先んじるように、曲者がぐいと僕の身体を引いた。

「言え。天女とやらはどこにいる?」

かすかに僕の肩が跳ねた。

「天女、だって…?」

潜められた声が、耳元で響く。
馴染みのないそれに対してよりも、問題だったのは男が告げた内容だった。

「どうした?揺れが表に現れているぞ?所詮、たかが忍たま、と言ったところか?」
「何の、ことかな」

首に回された腕に力が籠もる。ぎり、と気道を押しつぶすように締め上げる動きに眉根を寄せた。

「…ッ!」
「とぼけて見せたところで無駄だ。我々には既に情報がある」
「情報?」

息苦しさと生暖かい息が掛かる不快感。そして何より「何故」という疑問が僕の脳裏を駆け抜ける。
何故だ。何故、この男が唯歌さんのことを知っている?
唯歌さんという存在は、学園内でこそ周知の事実だけれど、それが早々外部に漏れるはずがない。
何故なら彼女は『天女』なのだ。ある日空から落ちてきた、すべてが美しい存在。それは僕らの宝で、守るべき稀有な存在で。皆そう思って彼女に接してきた。わざわざ部外者に彼女の素晴らしさを語る必要なんてない。唯歌さんは学園の中にあって僕らの側にいてくれたならそれだけでいいと思っていたから。
男が嘲笑に咽喉を振るわせる。

「その様子では、噂は真実のようだな」
「噂?」
「せっかくだ、知らぬなら教えてやろうか?忍術学園は、天女を囲っていると専らの噂だぞ?その天女は何でも絶世の美姫で、『所有者』の願いを叶えるだの、血肉は不老の妙薬となるだの、そんな噂がな」
「何、だって…!?」
「まあどれも眉唾な噂ではあるがな。我らが主は、それでも天女を所望だとのことだ」

不老の妙薬はともかく、絶世の美姫とあらば一目見るのも悪くはないだろう?下卑た笑い声はひどく耳障りだったけれど、その時曲者の腕からほんの少し力が抜けた。

「ということだ。さっさと天女とやらの居所、教えてもらおう、か……ッ!?」

曲者の手首を掴み、躊躇いなくそれを返す。鈍い音と共に、曲者が呻き手にしていた忍刀ががしゃりと地面に落ちた。
素早くそれを拾い上げ、僕は男へと向き直った。

「『たかが』忍たまと、侮りましたね?」

敵への侮りは忍の三病のひとつにも数えられる。僕の勝機であり、曲者の敗因となったのは、曲者の慢心だった。

「ご存知ないでしょうけど、僕は保健委員なんですよ」

人体の構造なら、他の忍たまたちより熟知している。例えば何処にどう触れれば、痛みを和らげることができるのか。そして、痛みを与えられるのか。

「く…ッ」

闇に慣れた目に、苦悶を浮かべる曲者の顔が映る。じゃり、と土を踏み、僕は刀を構えた。手首の間接を外しただけだ。その程度でプロの忍者が諦めるとは思っていなかった。
しかしその予測は外れることとなる。
風が吹いた。曲者がかすかに肩を震わせた。かと思えば、曲者は僕をぎろりと睨みつけ、サッと背を向け駆け去った。
張り詰めた糸が切れるように、体から力が抜ける。思わずほっと息を吐き、すぐにこんなことをしている場合ではないと思い直した。
急がなければ。曲者が唯歌さんの居所を突き止める前に。


***


おかしい。どうにもおかしい。
忍刀とはこんなに重たかっただろうか?走るたび、心臓はこうも忙しなく動いていただろうか?
ずくり、と痛む傷に顔を顰め目を遣れば、左腕に一文字の傷があり、そこからほんの僅か血が滲んでいた。さっき曲者の腕を振り払った時にでも出来た傷だろう。あとで処置しないと。

ああ違う。今はそんなことに構っている場合じゃないんだ。早く、皆に知らせないと。あの人の身が危ういのだと。
僕は忍刀を抱えなおした。
幸か不幸か、地の利は僕にある。あの正体不明の曲者よりも早く、皆に知らせて唯歌さんの元へ向かわなければ。

急いた気持ちでただひた駆ける僕の耳に、がさりと大きな葉擦れの音が聞こえた。
咄嗟に身構えたものの、木立の影から現れた者が誰であるのか確認すると、そんな場合ではないのに一瞬肩の力が抜けた。そして僕は、その名前を呼んだ。

「鉢屋!?」
「そうですが、どうしたんですか善法寺先輩」

夜間自主鍛錬中なのだろうか、藍色の制服を纏った後輩は、顔を隠していた頭巾をずらし僕の声に頷いた。不破か鉢屋か、僕はどうやらその二択で正解したらしいけれど、今はそんな事はどうでも良かった。

「大変なんだ、唯歌さんが」
「……天女様、ですか?あの方が、どうか?」

目に見えて切羽詰っているだろう僕に対して、鉢屋はたた不思議そうに小首を傾げただけだった。
ああ、どうして伝わらないんだ!歯噛みしたい衝動を堪えて叫ぶように訴える。

「唯歌さんが狙われてるんだよ!」
「狙われている?」

物騒な一言に、鉢屋が眉をかすかに寄せ口元に手を遣った。そして続けて、呟くように口にした台詞は。

「なるほど。やはり曲者の狙いはそれでしたか」
「……鉢屋、何でそれを……」

僕は、『狙われている』と確かに言った。だけど『誰に』とはまだ一言も告げてはいない。
冷静に考えれば、ここがどこで、唯歌さんが狙われているという事実があって、それを繋ぎ合わせれば自ずと導かれる答えではあったけれど、その時僕は何故か冷や水を頭から被せられたような気分を味わっていた。

鉢屋の口ぶりはまるで、曲者の存在を端から把握していたかのようだった。
知っていた?まさか…だって僕らは誰もその存在を知らなかった。僕らは六年だ。最高学年として僕らが――いや例え僕が見逃してしまったとしても他の面々が見過ごすはずがない。
少なくとも僕にだって、その程度の自負はあった。
けれど僕のそんな動揺を見透かしているように、鉢屋は軽く肩を竦めた。

「これだけ空気が騒いでいればさすがに否でも気付きます。ちなみに私たちは、朔先輩の指示の元、曲者を追っていました」

私たち、とは鉢屋を含めた五年生だろう。それじゃあ彼らは、この変事に気付き動いていたというのか?いやそれより何よりも。

「朔、の?」

朔の指示で?
思わずポカンと立ち尽くし、僕は鉢屋をマジマジと見つめ返した。それだけその名前は予想外だった。

「朔は、この状況に気付いているのかい?」

きっと僕は、ひどく間の抜けた顔をしているんだろう。その証拠に、鉢屋は少し呆れたような目を僕に向けていた。

「……はい。さすがに曲者の目的まではわかりませんでしたが、その調査を含めて私たち五年は学園内に散っています」

だから制服を着ていたのか。そんなどうでもいいことをぼんやり思った。

「朔は…」

朔は、異変に気付いていた?ならどうして、僕らに何一つ伝えなかった?同じ長屋にいたんなら、五年に指示を出す前に僕らにそれを告げることは簡単だっただろうに。どうして?

あれ?そう言えば、朔はどうしていたんだっけ?僕たちは唯歌さんと一緒に過ごしていた。昨日も今日も、その前も。彼女が休むまで側にいて、そうして長屋に戻って僕らも眠って起きて、また側にいて。じゃあ朔は?朔は『どこ』にいた?
…いや違う。朔は『何』をしていた?

「善法寺先輩」

ぐるぐると考え込む僕を現実に引き戻すように、鉢屋が僕を呼んだ。
顔を上げれば、再び頭巾を当て直した後輩は既に僕に背を向け、顔だけをこちらに巡らせていた。

「朔先輩は既に天女様の元へ向かわれました。私たちもこれから後を追います」
「鉢屋…ッ!ちょっと待…」

ただそれだけを告げ、止める間もなく鉢屋の姿は夜に溶けて消えた。
その後を追うように、かすかに風を切る音――矢羽音の音が聞こえた。あれは、五年の矢羽音だろう。僕にその意味はわからなかったけれど、恐らく鉢屋は他の四人に事態を知らせたに違いない。

ああ、僕もこんな所で立ち止まっている場合じゃない。早く皆に知らせて、唯歌さんの所へ向かわなければ。相手の実力はわからない。そんな中、朔と五年生たちにだけ任せるわけにはいかないじゃないか。
何かが僕に絡みつく。まるで足を、動きを、鈍らせるように。考えるな。考えちゃ駄目だ。今はまだ――。それは、今すべきことじゃない。
正体のわからない何かを振り払うように、僕はただ六年長屋を目指し足を動かした。


小石ひとつに立つ波紋
(20120211)

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