褪せた紫

一年生から順繰りに確認してくるという雷蔵と別れ、俺はその逆を行く為四年長屋に向かって駆けていた。
先ほどまで感じていた不穏な気配は少し遠い。侵入者たちが狙うものが何であるのかはっきりと突きつけられるようで、下級生たちへの被害の心配が減った分げんなりする。
三郎の言葉じゃないけれど、本当にあの女はどこまで手間を掛けさせてくれるんだ。
朔先輩が自ら助けに向かうというのも気に入らない。先輩に厄介ごとを押し付けた元凶をどうして先輩が守ってやらないといけないんだ。
そんなことをつらつら考えながら、風の音が止んでいると気付いた。

静かだな…。
忍のゴールデンタイムだというのに、学園内はひっそりと静まり返っている。だけどこれは、今に始まった事じゃない。
天女を称するあの女が現れてから、夜間の自主鍛錬を行う生徒は劇的に減少した。
天女に惑う六年、四年は「危険な事はして欲しくない」という天女の戯言に愚直に従い、三年生以下の下級生たちは負担の増えた委員会活動のお陰で疲れ果てそれどころではない。

六年生ほど天女にべったりではないにしても、綾部喜八郎は穴を掘らなくなった。平滝夜叉丸は戦輪を、田村三木ヱ門は石火矢をそれぞれ花や菓子に持ち替えて天女の周りをふらふらしている。そして斉藤タカ丸さんは天女に乞われればにこここと彼女の髪を飾り立ててやっている。
鋏を捨てろとは言わない。だけれど貴方は、忍者になる為にここにいるんだろう?髪結いとして雇われているわけでもないだろうに。

――髪結いとして将来を嘱望されながら忍を目指し途中編入してきたはずの年上の後輩。同じ委員会に所属しながら、最近ではめっきり顔を合わせることもなくなったその人を見かけるたびに、溜息が零れるのは致し方ない。
接し方に困った事もある。だけど俺は、懸命に学ぼうとするその人を好ましく思っていたんだ。なのにどうして、こうなってしまったんだろう。

四年長屋へはあと少しというところまでやって来て、その異変は訪れた。
静寂の中に紛れる異質な空気。
俺はハッと息を詰めた。
複数の気配。それは決して穏やかなものではなかった。
月光に鈍く光るものが見えた。視界にそれを捉えた瞬間、俺は迷うことなく懐の手離剣を打っていた。

「ぐおッ…!」

鈍い呻き声が上がる。的確に命中したらしい。標的は二、三歩よろめき刀を取り落とした。
腕を押さえ後退した男と、互いに庇いあうようにして苦内や戦輪を構える後輩たちの間に、俺は身体を滑り込ませた。

「く、久々知先輩!」
「無事か!?」

驚きと、何より安堵の滲む滝夜叉丸の声。それを背に、俺は黒装束に対峙した。相手はひとり。こちらは五人。分が悪いのは、さてどっちかな。少しだけ首を傾げた俺を、男がねめつける。
張り詰めた空気を破るように、じゃりと土を踏む音。それを合図に、男はサッと背を向け俺たちの前から走り去った。

「ま、待て!!」
「追うな」
「しかし、久々知先輩!」
「放っておいて良いのですか!?刺客の目的は学園長先生なのでは!?」
「あの手負いに討たれるような方じゃないだろう?」
「そ、そうかもしれませんが…」

第一、今回の曲者たちの目的は学園長ではない。男の去った方角――西を睨みながらそう告げれば、四人は少しだけ考え込む素振りを見せた。
かと思えば、ハッと顔を上げ、詰め寄る勢いで言葉を重ねる。その方角にあるものに、思い至ったらしい。

「まさか目的は、唯歌さんですか!?」
「かもしれないな」
「かもしれないなどと、そんなのん気に」
「大変じゃない、久々知君!狙われているのが唯歌さんなんて!」

そうだ、大変なんだよ。この状況は。
今更わかったのか。痛む頭に、朔先輩の苦労を思った。最近の先輩はいつもこんな頭痛を抱えているのだろうか。だとしたら本当に、申し訳ない。
先輩ばかりに頼ってしまって。
自分の不甲斐なさを改めて実感したけれど、今はそんな反省をしている時ではないと思い直す。

「……で?お前たちは何処へ行くんだ?」

キッと顔を上げ、滝夜叉丸と田村がはっきりと宣言する。

「決まっているではないですか!」
「我々も唯歌さんの元へ向かわなければ!」

勇み立つ二人の言葉に、タカ丸さんと綾部も顔を見合わせてそれぞれ小さく頷く。決意は固いとばかりに俺を見つめる四対の瞳はそれぞれ真摯な色を宿していたけれど、むしろそれは、どこか滑稽だった。

「天女の元へは朔先輩が向かわれた。他の六年生方も駆けつけるだろう」

突きつけるべきか、少しだけ迷ってそれでも言わなければいけないと思った。

「……お前たちが行ったところで足手まといになる」

相手の力量は測りかねるが、あくまでプロの忍。四年生――それも鍛錬を怠った奴らが容易く勝てる程甘くはない。四年生が現れれば、先輩はコイツらを守ろうとするだろう。そんな手間を掛けさせる気はなかった。
こんな意図が伝わるとも思っていなかった。だけど俺は、自分の力量と現状を考えて不承不承でも納得するだろうと予想していた。

「蓮咲寺先輩が、ですか?」

そう問い返す、滝夜叉丸の声を聞くまでは。

「そうだよ。朔先輩だ」

その声には、不安が浮かんでいた。気がする。
滝夜叉丸に続くように、他の面々も口を開く。

「でも、久々知君。蓮咲寺君は……」
「そうですよ先輩。あの人は」

言いよどむタカ丸さん、一見常と変わらない平淡な表情の綾部。二人が言わんとすることは、おそらく同じだった。

「……先輩は『六年最弱』、か?」

タカ丸さんと綾部だけではなく、滝夜叉丸と田村もグッと押し黙った。可愛い後輩。普段の俺なら、きっとそう思うことができるはずだ。だけど――。

「確かに先輩は、そう呼ばれておられる」

そう、昔から。あの学年の中では最も弱いと。
自分の声が、冷めていく。止めようと思えばできただろうけれど、俺はそうしなかった。

「だとしても」

まっすぐに、俺は四人を見つめた。

「それは、お前たちが口にしていいことじゃないだろう?」

それは先輩に対する侮辱だ。

「――ッ」
「で、では…我々にどうしろと仰るのですか!?」

それでも気丈に俺を見返して噛み付いてくる田村に溜息をひとつ。
反論が見付からないなりに納得はしかねるのだろう。俺の返答を待つ後輩たちから、そっと目を逸らし背を向けた。
毒されているのはすべて、あの女のせい。あの女が現れるまでは、四年生たちは確かに先輩を慕っていたというのに。

「久々知先輩」

平静を装うとしているのか、不自然に強張った綾部の声が俺を呼んだ。

「僕たちは、どうすればいいんですか?」
「お前たちは、四年長屋で待機しろ」
「な…!」
「それがお前たちへの指示だ」
「蓮咲寺、先輩からのですか?」
「……だとすれば?」

ちらりと肩越しに視線を投げれば、四年生たちは歯がゆそうに唇を噛み締めていた。ぎゅっと拳を握り締め、俺を見据えた滝夜叉丸が一歩進み出る。

「先輩にお伝え下さい。唯歌さんの身に何かあれば、我々はあなたを許さないと」
「そうか」

わかったとも嫌だとも応えず、俺は地面を蹴った。次は、三年長屋へ向かわないと。ぼんやりとそんなことを考えながら駆ける俺を呼ぶ声があった。

「兵助!」
「……雷蔵?」
「うん、そっちはどうだった?」

まっすぐに俺に向かって駆け寄ってくる同じ色の制服。それにひどく安心している自分に気付いて、俺は頭巾の下で小さく笑った。

「兵助?どうしたの?何かあった?」
「ん?いや、想定内のことかな」
「想定内?四年生は?」
「無事だった。天女の毒、以外は」
「……ああ、そういうこと」

それで理解したらしい。苦く笑い、雷蔵は「三年生まで、みんな無事だったよ」と告げる。

「そうか」
「うん」

「それで」と雷蔵が俺の顔を覗き込む。

「どうする?」

下級生の安否確認が俺たちに与えられた役目だ。それを果たしたのなら。

「西、かな……」
「……だよね」

二人揃って見据える先は同じ。あの人がいるところ。

「行こうか」
「うん」

天女なんてどうでもいいけれどと頷きあった俺たちの耳にその音は届いた。

「……ッ。雷蔵、今の……」
「うん…三郎だ」

風を切るような音。それは俺たちの矢羽音の音。それが、告げていた。


――敵の目的は、天女簒奪。


天女の居所は、既に知られていると続く『声』に俺たちは顔を見合わせた。

「急いだ方が良さそうだな」
「そうだね。先輩ひとりじゃさすがに大変だよ」

一体色に惑った他の六年がどれほど戦力になるのかわかりかねる今、想定した事実であっても先輩ひとりにすべて求めるなんてできるわけがない。
早く早くと急く気持ちを抑えるように、一度大きく息を吸い、闇に溶けるようにただ走った。


それは滑稽で、痛ましい色
(20120120)

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