嵐、到来。

ふわふわと、夢見心地というのはこういうことを言うのかもしれない。

今日も一日、素晴らしい日だった。夜更けに戻った自室で、夜着に袖を通しながら僕は幸せを噛み締めるように今日という日を反芻した。
今日も唯歌さんはやっぱり変わらず美しくて、優しくて、そして綺麗だった。そう、彼女は『綺麗』なんだ。こんな世界に生きながら、どこまでも純真で無垢で真っ白なひと。血の匂いとは無関係なひと。
傷ひとつ無いやわらかな白い手が触れるたび、胸が高鳴る。彼女は唯一の存在で、そんな彼女の側近くにあって、守ることを許される喜びは喩えようもない。

懸念した毒虫騒動もその日の内に無事に収束したみたいだし、これで唯歌さんの不安も少しは晴れただろうと思うと嬉しかった。だけど同時に、無理に笑って見せた彼女の顔を思い出して僕の胸はちくりと痛んだ。

『虫は捕まったのよね?じゃあ唯歌は大丈夫よ。みんなも心配しないでね?』

きっとまだ不安はあるのだろう。それでも気丈に笑ってくれた唯歌さん。僕にできることなんて、薬を作ることくらいだっていうのがひどく歯がゆい。
がたがたと、風が吹きつける音がする。今夜はひどく風が強い。ひゅう、と滑り込んだ風が灯りと共に僕の髪を揺らした。
入り込んだそれに、きちんと戸が閉まっていなかったことに気付き、僕は腰を上げて手を伸ばした。

『みんなの近くにいられれば、安心なのにね…。あ!ごめんね?気にしないで…』

あの時、朔さえ頷いてくれれば唯歌さんを長屋に迎えられたのに。そうすれば唯歌さんも僕らも安心できたのに。
朔はどうしたんだろう?いつもの朔なら、笑って頷いてくれるはずだった。僕らはそう信じてたし疑ってもいなかったのに。
溜息混じりにそんなことを考えていた僕の中で、その疑問が頭をもたげたのは不意の出来事だった。

「……留三郎」
「ん?何だ」

衣擦れの音が止み、部屋を仕切る衝立の向こうから同室の友人がひょこりと顔を出す。寝支度を終えたらしい留三郎は、「どうした?」と不思議そうに問いかけてきた。

「あのさ、留三郎。朔がさ、ちょっと変だった気がするんだ」
「朔が?」
「ほらあの時だよ」
「あの時?」

唐突に切り出された話に留三郎が首を捻る。僕もまた首を捻った。
あの時、それはいつだっけ。

「この間の毒虫騒ぎの時…。鉢屋が駆け込んできて…」

それから唯歌さんが、鉢屋に声を掛けて、唯歌さんに声を掛けてもらえる鉢屋が羨ましいって思ったんだっけ…。それで、ええと…。

「毒虫が逃げたって話になって…竹谷は何をしていたんだって、仙蔵が言った後…」
「ああ、あれか。その後アイツは鉢屋を連れて毒虫捕獲に行ったんだろう?」

唯歌さんをお守りする方が先決だったと思うんだがな…と留三郎は苦った顔をした。

「だけどまあ、結果捕まえたのは朔なんだろう?アイツなりの遣り方で唯歌さんを守ったってことにしてやらねぇと可哀想だろ」

僕が言う『朔が変だった』というのが、その行動だと捉えた留三郎が溜息混じりにそう言った。でも違うんだよ、留さん。僕が言いたいのは、もう少し前なんだ。

「ほら、仙蔵が竹谷の職務怠慢だって言っただろう?それで、義務云々て言ってて」
「ん?…ああ、確かそんな事言ったな」

お前よく覚えてるなあと、留三郎が感心したように目を丸くする。

「その時、朔が何か言おうとしてた気がして、僕、『どうしたの』って訊いたんだ」

そうだ。その時だ。

「あの時、朔は僕の手から逃げたような気がしたんだ」

どうしたのと指し伸ばした手が触れかけた刹那、ぱっと身を引いた友人。
触れるはずだった指先は、空を切っただけで。そんなこと、今まで一度もなかった。泣いたり怒ったり。いろいろな事があっても、朔は触れようとした僕たちの手を拒んだ事なんて一度もなかった。
なのに、その朔が僕の手を避けるように身を引いたんだ。

「朔が?」

そう訴える僕に、留三郎は怪訝な顔をしただけだった。

「気のせいじゃないのか?」
「気のせい?でも留さん…あの朔がだよ?」
「偶然、てこともあるだろ?お前が手を伸ばした時、丁度アイツが動いたとかそんなとこだろう?」

考えすぎだと留三郎は呆れたように笑う。でも、と僕は言い募ろうとした。
何がどうおかしいのか上手く言葉に出来ない事が何だかひどくもどかしい。言葉にできなくても、留三郎なら推し量ってくれないだろうか。そんな期待は叶わなかった。

「大体、朔がおかしけりゃ、小平太辺りがまず騒ぐだろ?あいつが何にも言わないなら、気のせいじゃないのか?」
「……気の、せい……なのかな」

確かに、小平太は何も言わなかった。唯歌さんを怖がらせないようにと長次や仙蔵に釘を刺されていたから不機嫌を露骨に出しはしなかったけれど、憮然とした表情で終始言葉少なく成り行きを見守っていただけだった。いくら朔に対して思うところがあったとしても、もし朔がおかしかったならば小平太は一言二言くらいは言及しているだろう。朔がどれだけ隠しても、体調が悪いとか落ち込んでいるとか、そんな変化に真っ先に気付くのは大体いつも小平太や長次で、授業以外なら僕だって朔といる時間はそれなりに長いと思う。なのに気付くのはいつも三番手四番手ばかりで、僕はそれがなんだか悔しくて……。

「……気のせいなのかな、やっぱり」

小平太は勿論、長次だって何も言わない。触れない。なら、僕の思い過ごしだろうか。
少し過敏になっているのではないかと、留三郎が苦笑する。

「今日はさっさと休んだ方がいいんじゃないか?明日に影響してもまずいだろ?」

明日は朝から、唯歌さんと街へ出ることになっている。新しい紅をあの人へ贈ろうとみんなでこっそり話し合っていた。きっと、また喜んでくれる。その笑顔を思い描くだけで、ひどく幸せな気持ちになる。
はずだったのに。
小骨が咽喉に掛かったような違和感が拭えない。些細なはずのあの子の行動が、どうしてこんなに気になるんだろう。

「気のせい、だよね」

自分に言い聞かせる為にこぼした呟きは、何故か空々しく響いた気がした。

「伊作?」

留三郎の声に、ハッと顔を上げる。

「どうした?お前こそ変だぞ?」
「そ、そうかな…。そうかもしれないな…」

留三郎の言う通りだ。こんなことを何時までも気にしている僕の方がずっと変だ。

「……疲れてるのかもしれないね。もう寝るよ」
「ああ、そうしろよ。お休み」
「お休み、留さん」

笑って灯りを消して、夜具の中へ滑り込む。頭から掛け布を被り、ぎゅっと目を閉じた。早く眠ろう。眠ってしまえばきっと気にならなくなるから。
そう思う気持ちとは裏腹に、冴えた頭は一向に眠りの淵へと向かえない。びゅうびゅうと吹く風の音ばかりが耳につく。

どれだけそうしていただろう。隣からは規則正しい寝息が聞こえ始めた。
僕は溜息を吐き、布団からそっと抜け出した。
かたりと雨戸を開け外を覗く。風は少しだけ力を弱め、雲を押し流していく。切れ間に覗いた満月に、目を細めた。何だか久しぶりに月を見た気がした。
久しぶり?

「……変だな」

久しぶりってどういうことだろう?夜は忍のゴールデンタイムじゃないか。どうして久しぶりなんて思うのかな…。
あれ?と首を傾げ、外へ降りてみた。疑問は晴れない。答えは出ない。何だろう、これは。モヤモヤとしたものを振り払うように足を進めていたらしい。気付けば長屋から離れ、学園長先生の庵近くまできていた。これじゃまるで病気みたいだ。いよいよ本当に疲れてるのかもしれない。毒虫騒動とは別に、唯歌さんの側にいる為に不運に彼女を巻き込まないようにと気を張っていたからかもしれない。僕の不運は人を巻き込んでしまうこともあるから。

『伊作は不運なんだから仕方ないよ』

一緒に穴に落ちても朔はそう言って笑ってくれたけど。
また朔だ。今日はどうして、こう朔を思い出すんだろう。

「……戻ろう」

どうせ答えは出そうにないし。そう思って踵を返そうとした瞬間だった。
刹那、感じたもの。背筋がひやりとするようなその感覚には覚えがあった。
――――殺気。

「ッ!?」

バッと背後を見遣るけれど人影などない。けれど、間違いない、間違えるはずがない。他者を害するという意志を明確に感じるような、それ。
学園の敷地内でそんなものがあるということは、それはつまり。
僕は今度こそ踵を返し、長屋へと駆け出した。知らせなければ。早く、彼らに。
土を蹴る僕の視界の端、白銀の一閃が煌いた。咽喉元に当たる冷たい感触。それが何か考えるまでもない。
ああ、僕はやっぱり不運なのかもしれないな、なんてどこかのん気にそんなことを考える。

風の音が、止んでいた。



君の予報を疑うなかれ
(20111128)

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