華戦、開幕。
しとしとと、雨が降る音がする。 何だか随分久しぶりである気がするが、我が城ともいうべき学級委員長委員会室は自室とは違う意味で落ち着く。 目の前に小山のように積み上げられた各種書類を見るとはなしに眺めつつ、私は頬杖を付いたまま菓子鉢から煎餅を取った。 「朔先輩、どうされたんですか?」 ばりばりと殊更大きな音を立てて煎餅を齧る私に、小首を傾げるのは鉢屋三郎である。 その手元には算盤と広げられた帳面がある。 「ん?いや、別に」 なんでもないのだと首を振り、自分も報告書を手にした。 三郎は胡乱気な表情を浮かべはしたものの、それ以上重ねて問うことはしなかった。 算盤の珠を弾く音と、私が煎餅を齧る音だけが、二人きりの部屋に響く。 目は紙の上に向けてこそいるけれど、どうにも滑ってしまい、いまひとつ集中できない。 そうこうしている内に、手にしていた煎餅はまるまる一枚私の腹の中に収まってしまい、私は新たな一枚へ手を伸ばした。 「三郎」 「はい?」 「八左ヱ門はどうしてる?」 「ハチですか?今日は朝から勘ちゃんと動いていますよ。小屋の修理を終わらせると言っていましたから」 「……ああ」 雨で屋根板が朽ちて毒虫が逃げ出した小屋を、また雨の降る日に直してしまわねばならないとは何だか皮肉なものだ。 そんな大袈裟な話でもないだろうに、ついそう思う。 確かに毒虫の種類というか危険性を考えるならば、急ぐに越した事はないのだけれど。 逃げ出した、美しい蝶々。見る者の目を奪う程に美しい羽。それは、時として人を死に至らしめるほどの毒を持つ。 逃げたものが何であるか知らずに、ではあるが、あの時三郎に掴み掛るようにして噛み付いた留三郎の危惧はある意味では正しい。あれは学園内で逃してはならないものだ。ひそやかに、先生方と上級生だけが存在を知り飼育してきたもの。 植物園になど逃げ込まれてしまったばかりに、下級生たちはあれを伊賀崎孫兵のペットかそれに似た類のものであると思い込んでいた。 あの存在を、下級生に知らせるべきか否か。別に知らせたって構わないではないかと思うのは私だけではないだろうけれど、一応学園側はそれを否定していた。だから八左ヱ門は、下級生たちを捜索に加わらせた。普段逃げ出す毒虫たちと同じものであるように思わせる為に。 あれがただの毒虫であるならば、八左ヱ門は生物委員会内で事を処理した。けれど今回、八左ヱ門は他の五年、そして私に助力を求めた。下級生が見つけるよりも先に捕獲する為に。 結果として捕まえたのは、私と八左ヱ門だった。 だから、それでいいではないか。忍者にとっては結果がすべて。だからそれで、いいはずだろうに。 「先輩」 「んー?」 「報告書を思いっきり握りつぶしておられますがいいんですか」 「あ」 言われて見てみれば、報告書は見るも無残な姿に成り果てていた。破り捨てなかっただけましだろうか。 溜息交じりに皺を伸ばしていると、手を止めた三郎が窺うように小声で訊ねてきた。 「そんなに不快なことが書いてましたか?」 「いーや?全然。寧ろ私の後輩たちは良く働いてくれていることがありありと目に浮かぶ報告書だね」 おどけたような口調で、この聡い後輩が誤魔化せるとは思っていなかったけれど、やはり三郎はどこか不機嫌そうにこう言った。 「……先日の件、ですか?」 「んー…?」 答えを返さない私を見て、沈黙は肯定と取ったのだろう。三郎の表情にも苦いものが混じる。 「やはり、先生方に何か言われましたか?」 「それはないよ」 毒虫を逃がした責で八左ヱ門が咎めを受けるのかと問う三郎に、これだけはとばかりにきっぱり断じた。 「先生方はその件に関して何にも仰られていないし、学園長先生からも呼び出しはない」 だからハチに何かしらのお咎めがあるというのは考えがたい。そう答えれば、三郎の肩からほんの少し力が抜けたようだった。 変わり者だの付き合いにくいだの色々言われることも多いけれど、懐に入れた者に対して三郎は優しい。 その優しさが少しばかりわかりにくいだけだ。 「だからハチは大丈夫」 繰り返しそう言って、私は溜息をひとつ吐いた。 「むしろめんどくさいのは天女様と愉快な仲間たちの方」 「先輩にも、何か言ってきたんですか?」 逃げた虫が『何』であったのか知った後も、天女様の身を案じることばかりに気を取られ捕獲に加わろうとしなかった級友たちを思い出す。 そんなに天女様が心配なら、さっさと捕まえてしまった方が安全なのではなかろうかと呆れていられた内はまだよかった。 こともあろうにアイツらは、虫を逃がした八左ヱ門に非難の矛先を向けてきたのだ。 そりゃ確かに八左ヱ門にも落ち度が無かったとは言えない。だけど、あの虫に限定して言えば飼育小屋の補修は留三郎の、その為の予算を捻出するのは文次郎の役目のはずだった。 「まったく、笑わせるよねえ」 自分の役目を忘れて、それを棚上げしている事にも気付かず八左ヱ門を責める様は、怒りを通り越して失笑ものだったよ。 「予想以上に、病状は進行しているようですね」 「病状ってうまいこと言うねえ。恋の病ってやつ?」 「そんな可愛いものなんですか?あれは。末期の先があるなんて聞いていませんよ」 「末期の先、じゃなくて最初っからまだまだ末期には程遠い状態だったんじゃない?」 はは、と乾いた笑いを乗せて、私は湯飲みを手に取った。 ずず、と茶を啜る。 少し冷めたくらいが猫舌の私には丁度いい。 「朔先輩は、先輩方や四年生たちを天女の術中から取り戻すおつもりなんですよね?」 「んー?…うん、一応そのつもりなんだけどねえ」 ああいうの見るとそんな決意も萎えるよねえ。まあ取り戻すけど。 「何。やっぱり腹立つから反対するかい?」 「いえ、先輩がそのおつもりなら、私たちは協力を惜しみませんよ。第一、色に狂っておられる先輩方以上に、あの天女にはとっとと退場願いたいので」 反対する理由はありません。 言って、三郎が笑う。 あー…こりゃ随分と。 「甘いものでもお食べよ三郎」 「は?」 「苛々が滲み出てるよー。念のために言っておくけど、そんなんで下級生に接しないでね。八割方怖がらせるのがオチだから」 まあ三郎に限ってそんなヘマは早々しないだろうけれど。しかし今のこの可笑しな学園内では何が起こっても不思議ではない気がした。 「そんなにわかりやすいですか?」 「雷蔵先輩の顔した鉢屋先輩ですね?って一年生にもわかりそうな程度には」 懐を探って入れたままだった飴の包みを取り出すと、一粒三郎の口に放り込んだ。されるがまま、三郎は飴を口の中で転がしているけれど、憮然とした表情から指摘された内容が不本意だったというのは易々と読み取れた。 「何なんですか、あの女」 ほとんど初対面の人間にべたべたべたべたと。 地を這うような声に、苦笑を返す。 「本当にねえ。何なんだろうね、あのお前へのご執心振りはねえ」 あれだけ六年四年を侍らせておいて、まだ足りないと言うのだろうか。しかもよりにもよって三郎にあの戦法はないだろう。三郎は、見知らぬ相手との過剰な接触を嫌う。ハチ辺りにならまだ有効かもしれないけれど、と考えてあの時と場合を選ばず空気も読まない天女様なら結局誰が相手でも同じ事かと考え直した。 天女様が、端から無かったであろう鉢屋三郎の好意を一気にマイナス方向まで下げたのは想像に難くない。 「朔先輩」 「んー?」 甘えるように擦り寄ってきた三郎の好きにさせておいてやれば、ぎゅうとしがみ付かれる。大型犬にじゃれ付かれているみたいな気分だ。もふもふした頭を撫でながら「どうしたの」と訊ねると、三郎は相変わらず不機嫌そうな声で言う。 「あの女、どうやって片付けますか」 「気が早いよお前」 天女様に退場願う前に、彼女に取り込まれている連中を奪還しなければ意味が無い。 「やっぱりそっちが先ですか」 「そりゃ私も、とっととご退場願いたいけどねえ」 私から日常を奪い、可愛い後輩たちを憂い顔にさせて、あまつさえきり丸には不用意な言葉を投げつけた。 愚かな同輩たちは、そんな天女に傅き、日に日に力を衰えさせている。授業に身が入ってもいない彼らが、実戦で役立つはずも無い。そんなことにも気付いていない。 「まったく、面倒な話だよねえ」 自分も飴玉をひとつ摘み、口の中に放り込む。とろりとした甘さが、じわじわ広がっていく。 ああ、まるで貴女の存在のようですね、天女様。 がり、と飴玉を噛み砕き、私は笑った。 「先輩?」 「ねえ三郎、知っているかい?」 忍術学園学園長、大川平次渦正は忍者界は元より、多くの有力者たちからも一目置かれる存在だ。かつて天才忍者と呼ばれたその人は、あらゆる情報と知識と伝手を持ち、時としてひどく目障りな存在と煙たがられている。 「だから結構な数の敵から命を狙われているんだよ」 隙あらば、学園に攻め込もうと考える輩は決して少なくは無い。 「……今更なんですか?」 そんな事は一年生でも知っていると、首を傾げた三郎の言葉を遮るように私は続けた。 「この飴、美味しいね」 「はあ…」 「父様、毎度毎度美味しいお菓子見つけてきてくれるんだよね」 あの人も、結局私に甘いよね。 三郎が何かに気付いたように眉を上げた。 「先輩、まさか…」 三郎の問いには答えず、独り言のように私は呟く。 「まずは第一幕…ってところかな」 開幕早々訪れるであろう山場に備えて、時間は無い。備あれば憂いなし。多すぎる何てこともないだろう。 「さて、忙しくなるよ」 存外私も人が悪い。 ――それでこそ、私の娘だよ。 満足げに笑った父様の声が、聞こえた気がした。 天女と鬼子、勝つのはどちら? (20111103) [目次] [しおりを挟む] ×
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