そのひとは、わたしの顔を覗き込むようにして体を屈めた。
白と黒。目の慣れない闇の中、浮かび上がるように存在する彼女の姿が見覚えのあるものであることが不思議で、何度か瞬きを繰り返した。

(尼さん……?)

実物を目にしたことはなくても、テレビや教科書で見た覚えのある尼装束を纏った女がこんな山の中に佇んでいる。それが奇妙な事のように思えて、彼女の存在もまた夢なのだろうかとぼんやり考える。
そんなわたしをどう思ったのか、彼女はその柳眉を潜め、わたしの頬にそっと触れた。少し乾いた白い手は、とても温かかった。

「あなた、ご両親はどうしたの?」

両親?誰の?わたしの?
わたしの両親は、きっと今頃実家で日常を送っているだろう。娘がこんな山の中に放り出され、しかも体が縮むなどという夢のような事態に見舞われているなどと想像する事もなく。

「ひとりなの?」

ひとり?そうだ、ひとりだ。わたしは今。

「ひとり……」

彼女の言葉をなぞるように繰り返せば、その表情が曇った。
彼女がその時、何を思い何を感じたのか、それをわたしは知らなかったけれど、同情や哀れみや痛ましさや、色々なものが入り混じる目がわたしをじっと見つめていた事だけは覚えている。
彼女はしばらくの間、じっとわたしを見つめていた。わたしはぼんやりと彼女を見つめ返していた。やがて彼女は口の中で何事かを呟いた。

「…これも…お導きなのでしょう…」
「え…?」

訊ね返したわたしに、緩く首を振り、彼女は「立てますか?」と尋ねてきた。
のろのろと重い体を引き起こすようにして立ち上がれば、強張っていた表情が僅かに緩んだ。そしてわたしにそっと手を差し出す。
彼女の意図がわからずに、白い手と顔をとを何度か交互に見遣るわたしに、彼女はこう言った。

「行く所がないのなら、わたくしのところへいらっしゃい」

食べるものと、寝床と、そんなものしかあげられないけれど。
そう言って彼女はその意味を理解できず、返事もできずにいるわたしの手を取った。
どこの誰だかわからない彼女の手に縋ることが正しいのか間違いなのか、そんなことを考えることすらしなかった。気付けば条件反射のようにこくりと頷いたわたしに柔らかく微笑みかけたそのひとが、その瞬間のわたしのすべてだったのだ。

「そう…よかったわ。ところで、あなた、名前は何と言うのかしら」
「なまえ?……わたし、は」

鈴村楓。そう名乗ろうとして、何故かできなかった。二十年間慣れ親しんだ名前であり、わたしは『鈴村楓』でしかなかったのに、それができなかった。
今ここで、『鈴村楓』と名乗ってしまえば、これが現実であると認めてしまうことになるような気がしたのだ。その時わたしは、それでもまだこれが夢だとどこかで期待していた。今のわたしが夢の中のわたしであるなら、現実で夢を見ているわたしではないはずだ。だから、今のわたしはきっと『鈴村楓』ではなく、『鈴村楓』の夢の登場人物のひとりなのだ。そんな馬鹿みたいな思いが、わたしの口を重くさせる。
黙り込んだわたしに、名前を尋ねた彼女は困ったような顔をして躊躇いがちに口を開いた。

「名前が…ないの…?」

沈黙を肯定と取ったのだろう。彼女は思案するように小首を傾げ、わたしの頭をそっと撫でた。

「そう……。なら、わたくしが付けてもいいかしら?」

『朔』という名はどう?

「『朔』…?」
「ええ、ほら今日は朔の日でしょう?」

空を仰ぐ彼女の視線を追って、わたしは空を見上げた。木々の隙間から覗く空には相変わらず月も星もない。

「朔の日はね、月も星もないでしょう?すべてが空に守られて眠りに就く夜なの」
「まもられる…?」

この闇一色の世界が、夜空に守られているのだと彼女は繰り返した。

「だからきっと、あなたも守られているのよ」

一体何を根拠にそんなことを言うのかと、本来のわたしなら思っただろう。呆れもしたかもしれない。けれどその時のわたしは、繋いだ手の温かさと傍らに立つひとの存在を感じていると、そうなのかもしれないと根拠もなく思った。
だからわたしは、あなたと出会ったのだろうかと。

「まもられてる…」
「ええ…そうよ、『朔』。……駄目かしら」
「朔…」

確かめるように呟き、そして首を横に振ったわたしに、彼女は嬉しそうにもう一度「朔」と呼んだ。

「それじゃあ、あなたは今日から『朔』よ」
「はい」

わたしが朔。わたしは、朔。
繋いだ手に少しだけ力を込めると、同じだけの力で握り返される。光のない夜にはそれだけで十分すぎた。

「行きましょうか、『朔』」

手を引かれるまま踏み出したその一歩が、すべてを変えることに気付きもしないまま、そうしてわたしは歩き出した。


『わたし』が『私』になった日
(十年前、冬の話)

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