裏方たちの舞台裏
ゆらり、灯が揺れた。 ゆらりゆらり、ゆれるその灯が長い影を映し出す。 幾筋にも伸びる複数の影。その主たちは皆一様に、上座に座るこの庵の主へと視線を向けていた。 「……では報告を聞こうかの。諸々、現状どうなっておる?」 庵の主――忍術学園学園長大川平次渦正は、笑みを含んだ声音でもって背を正した黒装束たちに問いかけた。 「木下先生。どうじゃ?」 「は。では失礼致します」 まず名指しされた木下鉄丸はその膝を進めた。口を真一文字に引き結んだその表情が、鬼瓦のような彼の風貌を際立たせていた。 「先日起こりました件ですが、夕刻前に収束致しました。捕獲に参加した生徒たちに負傷者は出ておりません」 「そうかそうか。それは何より」 好々爺然とした笑みを浮かべ、学園長は鷹揚に頷いてみせる。 三日ほど前に起きた事件とも呼べないそれ、とは毒虫脱走に他ならない。 連日降り続いていた長雨の為に、虫を飼育していた小屋の屋根が一部分腐り落ち、そこから脱走した虫が植物園に逃げ込んだ。 学園内の大多数の人間が「またか」と思ったように、「よくある話」だった。 学園が飼育している動物・生物。その大半を占める三年生の伊賀崎孫兵の愛するペットたち。それらはしばしば脱走してはこのような騒ぎを引き起こしている。だから大多数の人間――特に下級生たちは今回もそれもしくはそれに似た話だとしか思っていない。 そう思っていてもらわなければならない。 「虫を捕獲したのは誰じゃ」 「はい。五年の竹谷八左ヱ門、そして六年の蓮咲寺朔です」 「成る程。やはり八左ヱ門が捕まえたか。さすがに生物委員長代理としての矜持、というべきかの。朔が捕まえた、というのは少々想定外じゃが…まあよい」 「笑い事ではありませんぞ、学園長」 渋い顔を向けたのは、一年は組実技担当山田伝蔵である。 「『逃げたもの』が何であるかを考えれば、これは八左ヱ門の失態に他なりません。捕まえるのは当然です。それを下級生たちまで捜索に加わらせるなどもっての外……」 「山田先生の仰る通りです」 やはり自分の生徒たちが可愛いのが人の情というべきか、同じく下級生の担任教師たちが一様に苦った顔で同意を示す。 それだけ『あれ』は彼らの中で危険なものとして認識されている。 「やはり『あれ』は忍たまに飼育を任せるべきではないのでは……またこのような事が起きないとも限りませんし」 「ふむ…。しかし『あれ』もまた教材じゃ」 そこかしこで、小さな溜息がこぼれた。 『あれ』 そう呼ばれるものの存在を知る者は多くない。 忍たまたちが知る毒虫たちより余程性質の悪い、さらに稀少で強力な毒を有する生き物たちを。 学園の敷地は広い。それこそ、把握しきれないほどに。 だから下級生たちは知らない。学園の奥に秘められるようにして置かれたその飼育小屋を。 「学園長…今回は丸く収まりましたが、次があれば下級生たちもあの小屋の存在を知ることになるやもしれませんぞ」 「知ったところでどうこうなるでもあるまい」 「ですが……」 なおも言い募ろうとする教師を制するように、学園長は静かに口を開いた。 「このわしの命を狙おうなどと思う輩は余程の自信家か実力者。その者たちが操る獣遁虫遁は忍たまたちにとって学ぶ点も多かろう」 「……暗殺術が、ですか。確かにそうかもしれませが、しかしかといってプロが扱う毒虫を飼育するのはやはり如何なものかと。今回逃げ出した蝶に限ってみても、確かに稀少な種ではありますが毒性が強すぎるのでは」 美しく輝く透き通るように薄い羽が特徴であるその蝶は、鱗粉に強い毒を含んでいた。触れれば、その毒は皮膚を通してゆっくりと染み込み、人や獣の体を麻痺させる。最悪死に至らしめることすらあるが、体に残りにくく後々調べてみても発見され辛いという特性がある。 それを学園に持ち込んだのはやはり学園長の命を狙った暗殺者であった。 暗殺者を排除し、彼らが使う『道具』を取り込む。毒虫もまた、その一つ。 「そんなことを言っていては、プロとして通用せんじゃろ」 そこまで言われてしまえば返す言葉がない。教師たちは黙り込んだが、学園長一人、重い空気をものともせず話を続けた。 「それに『あれ』に関しては生物委員会のみの管轄、というわけではなかろう。八左ヱ門のみを責めるのは可笑しな話じゃて。『あれ』に関して言えば上級生たちに世話を任せている。実質は八左ヱ門とはいえ、本来小屋の修繕は用具委員の管轄、その為の予算は会計委員の管轄じゃ。それで言うのなら、修繕すべき点に気付かなかった食満留三郎も、潮江文次郎も同じく罰せなければなるまい?」 「それは……しかし今の状況であやつらにそれを言っても素直に聞くかどうか……」 「己の過ちにすら気付いておらぬのに、か?」 色に惑う――それもたった一人の娘を相手に揃いも揃って情けないこの現状に疑問も何も抱いていない。義務も職務も投げ打って、暇さえあれば『天女』に傅く己の教え子の姿を思い出したのか、室内の空気がまた一つ重みを増した。 天女と彼らが呼ぶ娘が現れて二月三月。その程度とも呼べる期間ではあったが、その間修練を怠った彼らは、少しずつ少しずつゆっくりと気付かぬ内に体力を衰えさせていた。何より散漫な注意力は実戦に出したところで判断を鈍らせる。状況に適応できるはずもない。 六年生、そして四年生の日常は、今や天女を中心に回っている。救いがあるとすれば五年生が正気を保っていることではあるが、それが問題の解決に繋がるかと言えばまた別の話だと彼らは考えていた。 五年生が何を言おうと、天女の信奉者となった者たちは耳を貸すまい。そう思わせる程、彼らの入れ込み方は教師たちの目には異様に映っていた。 「まあ良い。それはさておき、朔はどうしておる」 蓮咲寺朔。たったひとり残った、六年生。 「今の所目立った動きはありません。ただ…」 「ただ?」 「毒虫騒ぎの翌日、蓮咲寺の元に曲者が現れたようです」 「ほう。曲者が」 学園長はわざとらしく目を瞠って見せるが、他の教師たちは誰一人として驚きもしない。 「またか」と呆れたような顔をする者、「こんな時にのん気な」と苦い顔をする者、「わざわざこんな時に?」と訝しむ者と表情は様々だったが。 「どう思われますか、学園長」 「あやつが気付かぬはずはないじゃろうな」 「では」 「知った上での来訪、じゃろう。あの親馬鹿の事、何らかの手段で介入しようとしてはおるとは思うが」 「どうされますか?」 「どうもせん。無茶な事をしでかしそうになっても朔が止めるじゃろ。先生方は今まで通り静観を続けなさい」 庵の空気が、微かに揺れた。 「……学園長」 「うん?」 「此度の件、本当に静観しすべて蓮咲寺に任せるおつもりですか」 「うむ。そのつもりじゃが?」 「しかしあの子は最上級生とは言っても」 「最弱、か?」 六年最弱。朔が、そう呼ばれるようになって久しい。変わるのは毎年最弱の前に付く学年が変わるくらいで、入学当初から似たようなことを言われ続けてきた。 出来の悪い子ほど可愛いというわけではないが、体も小さく体術の不得手なその子どもを気に掛けている者は少なくなかった。 しかし学園長は小さく笑っただけだった。 「心配せずとも、こちらが思うよりあの子は強かじゃよ」 「強か?」 「あの子はあの天女よりも余程、賢い。自分の守るべきものが何か心得ておる」 「確かにそれについては反論はありませんが」 現状学園内で中心となり各種委員会を動かしているのは朔である。それは最高学年としてか、はたまた学級委員長委員会委員長としてか。何にせよ、それは下級生たちの日常を考えればまず優先すべき事項であり、これまで朔が行ってきた事は正しいと言えた。しかし教師たちの苦い顔に然したる変化はなかった。 「あの子は七松と特に仲が良かった。それを敵に回すような行為は酷なのでは…」 「先生方にしては甘い事を言う。友人であろうと何だろうと戦場で出会えば敵同士。それが我らじゃ。それに先生方は一つ思い違いをしているようじゃの」 「思い違い、ですか」 「あの子はおそらく、六年生たちを敵とは見なしておらん。そしてあの子はわしや先生方と同じく――いやそれ以上に懐に入れた者に手出しされる事を嫌う」 誰かが息を飲んだ。わずか一瞬、学園長の目に過ぎった剣呑な光がそうさせた。 しかしそれもまた見間違いかと思う程あっさりと消え去った。 「まあ忍としては未熟な証やもしれんがの」 ふぉっふぉっふぉっ。 胡散臭くもわざとらしい年寄り染みた笑い声に、それまでの重く澱みかけた空気が霧散した。後に残されたのは何だか疲れたような顔をした教師陣である。最近学園長はこの怪しい笑いがお気に入りらしい。どうでもいいがわざとらしすぎて緊張の糸がぶつぶつ切れる。 「何はともあれ、学園の方針は変わらぬ。先生方は引き続き静観を」 「そして蓮咲寺朔の動きを観察、ですな?」 「さすがに察しが良いの」 諦めたように首肯する教師たちの耳に、その呟きは届いた。けれど誰も、何も言わなかった。 「舞台はもうじき整うじゃろうて」 開幕の鐘の準備はできた? (20110905) [目次] [しおりを挟む] ×
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