ひそやかに、決意

「ただいまー…って誰もいないか」

慣れた目では然して問題ない程度の闇に包まれた自室は、相変わらずしんと静まり返っていた。
迎えてくれる人間などいるはずもない。
まあ一人部屋なのに返事があっても怖いし?……なんて強がりというか負け惜しみというべきか、ともかくそんなことを口にする気力は残念ながら今はない。

学園長に忍務の成果を報告し、部屋に戻ってくる前に井戸で水を浴びた。乾ききっていない髪や衣は少し水気を孕んで重い。春と夏の境という季節柄風邪を引きはしないだろうけど、不快感を感じるかどうかというのはまた別の話だ。足袋を脱ぎ捨てた素足が床を踏むたび、ぺたぺたと間抜けな音がした。
こぼれたのは溜息で、それは部屋を温めるどころか冷たくするばかり。冷えた空気を追い払おうと、灯りを点すけれどやはりそれにもあまり意味はなかった。

急に重く感じる身体を引きずるようにして押入れを開け中を漁る。そうして薬箱を引っ張り出した。
保健室の薬品棚のような立派なものは勿論持っていないし、保健委員がいざというときに持ち出す救急箱ともまた違う。蓋を開ければ包帯や手ぬぐい、そして数種類の薬が入っている。伊作に分けてもらったものもあるけれど、殆ど自分で調合したものだ。
小さな怪我が耐えなかった下級生の頃、保健室に行くほどではないようなものを自分で処置し始めたことを切欠にいつの間にか常備するようになったそれは、私にとって使用頻度の高い薬品で構成されている。

その中から無造作に取り出したひとつはどろりとしており毒々しいといった方がいいような緑色をしていた。
……相変わらず匂いもひどいなあこれ。
少々げんなりしつつも贅沢も言えない。改良の余地を考えつつ、私は忍装束から左腕を引き抜いた。前腕が少し赤くなっている。鈍く刺すような痛みは耐えられないものではないけれど、かといって放置して悪化する事はさけなければならない。私は緑の軟膏を取り、その部位に塗りつけた。ひやりとした膏薬がしみるように別の痛みが生まれる。それを無視するように、上から包帯をぐるぐる巻きつけた。白い包帯が、灯りを受けてほの紅く染まる。

ごろんと床に身体を投げ出して顔の上に翳した左腕は、普通に動かす分には支障も無さそうだった。丁度手甲より上、袖で隠れる位置であるから誰かに気付かれることもないだろうし、不幸中の幸いがあるならそんなところかな。
それはいいとしても考え事をしている時に火薬なんて扱うもんじゃない。我ながら笑えない失敗にまたしても溜息がこぼれる。

八左ヱ門は多分気付いてはいない…と思う。自分でも学園長に報告に行くまで気付いていなかったんだから。これで気付いても見て見ぬ振りされていたとかそういう話でないことを祈ろう。六年としてさすがに恥ずかしいし。

忍務の前日、つらつらと天女様について考えながら作った宝禄火矢は、明らかに火薬の分量を間違えていた。しまった入れ過ぎだ、と気付いたのは点火して投げて、爆発したと同時。私より後ろにいた八左ヱ門までは影響もなかっただろうけれど、通常量の火薬での爆発を想定してとった距離では、咄嗟に避けたとはいえ飛んで来た「山賊のねぐらであったはずの小屋の残骸」、という言葉にすると回りくどい木片を叩き落した拍子にうっかり負った火傷でこの様である。

ああもう格好がつかない。格好なんて気にしていたら忍者なんて務まらないけれど、これはほらアレだ。先輩としての立場とかね、そういうアレである。
しかしそれにしてもと、一個の宝禄火矢をきっかけに跡形もなく実に派手に焼け落ちた小屋を思い出し溜息をつく。私はよほど天女様に対して思うところがあったのだろうか。……いや、思うところはあるんだけどさ。何というかこう、いっそ一思いに消えてなくなってくれないかなー的なのがね。

あ、うっかりしてた!という失敗を装って火器を投げてみるのはどうだろう。爆発の衝撃でうまくすれば元の世界へ帰還してくれるかもしれないし。いやでもな…私は別に何らかの事故や事件に巻き込まれた拍子にこっちに来たわけじゃないし、天女様だってそうかもしれないしな…。そんな何かしらの衝撃で帰還するというなら私自身今この場にいないだろうし、そもそも逆に言えばうまくいかなければ単なる暗殺(未遂)事件である。というかそんな事態、あいつらが全力で、それこそ身体を張ってでも阻止するだろうな。いくら色ボケ全開で使い物にならなくとも、原因である天女様が危険に晒されれば火事場の馬鹿力よろしく本来の実力を発揮しそうだ、とか考えてそれはそれで複雑だし嫌だなあとそこまで及んで自分の思考にげんなりする。

…一体何をしているんだ私は。
手のひらに握りこんだままの固い感触をふと思い出す。薬を入れてある貝殻を、何とはなしに目の前に翳した。


『……ひどい匂いだな』


綺麗な顔を顰めてそう言ったのは、仙蔵だったっけ。

『じゃあそうだなあ。仙蔵に似合うように花の香料でも混ぜ込んでみようか』
『止めとけ止めとけ。その色で花の匂いなんざしてみろ、連想するものなんて一つだろう』
『あーそうだね。仙蔵の場合食虫植物っぽくなるもんねえ』

文次郎の軽口に乗っかった私に、顔を引き攣らせたは組二人がそれぞれあたふたと動き出したものだ。

『おいそこの馬鹿二人。口は災いの元を地で行ってるぞ』
『せ、仙蔵落ちついて!朔のこの火傷薬はよく効くんだよ?僕も調合方法を教えてもらおうかなーって思ってるし!』
『伊作、私は落ち着いているぞ?』
『じゃあ何で懐から宝禄火矢なんて取り出してるの!?』
『ああ、これは予備だ』
『だから何で今予備を!……微笑まないでくれないかな、怖いから』

慌てふためく伊作の顔を思い出す。綺麗ににっこり笑った仙蔵を思い出す。その後の私たちの運命なんて敢えて語るに及ばない。あれはひどかった。いや毎度のことといえばそれまでだけれど。


そして、宝禄火矢を持った彼の、火傷の跡の残る手を、思い出した。


女装をすれば生半可な女では足下にも及ばない美女に姿を変える仙蔵だけれど、その手や腕には顔に似合わない火傷の跡がいくつも残っている。大部分が随分薄くなってきているとはいえ、鉄双節棍や槍、苦無を得意武器として扱う連中とはまた少し異なる意味合いで仙蔵の手はぼろぼろだった。
火薬の扱いにかけては学園随一。何事においても『一等』と呼ばれる人間は何もせずにその称号を手に入れるわけではない。仙蔵とて例外ではないのだ。あの男は、下級生の頃からずっと火薬にかけてはそれこそ誰にも負けない努力を重ねてきた。何度も失敗しては火傷を負って、それでも投げ出すことなく怖れることなく進んだ先に今の仙蔵がいる。

いつも少しだけ――それこそ仙蔵をよく知る人間でなければ気付かない程度ほんの少しだけ、火薬の匂いのした仙蔵。同じように伊作からは薬の匂いがしたし、他の鍛錬馬鹿たちからは土の匂いがした。
今そこにあるのは、そんな慣れ親しんだ匂いなどでない。纏わりつく、あの女の――天女様の焚き染めた香の匂い。甘ったるいあれが、どういうわけか今この学園に満ちるどろりと澱んだ空気とだぶる。それは、指し示す符丁がすべてあのひとを指すが為だろうか。

外に出なければ気付かない、この場所の空気。外に出ても気付かない、六年連中。気付かないのは何故か?
天女様――有村唯歌が傍にいるから。そう考えれば納得できてしまう。

「どうしたもんかなあ……」

学園に踏み込んだ、一瞬。その一瞬の、八左ヱ門の表情が脳裏を過ぎる。

「気付いたかな…あれは」

忍務にあたり張り詰めていたそれとも違う、戸惑いと疑念と、そして不快感の混じり合った表情だった。窺うように私を見ていたことは知っている。けれど私は敢えてそれに気付かない振りをした。そんな私をどう思ったか、結局八左は学園長の庵を辞して別れるまで何も訊ねてはこなかった。

私や父様以外に一体どれほどの人間がこれに気付いているのかわからない。
囲われたこの庭に満ちる、この空気に。
言い方は悪いが、学園内部の人間は、外に出て戻ってこなければ気付かない程に自然毒されてしまっている。
夜中に事務室に忍び込んで過去の出入門表を漁る、などという真似をしてみれば、表面だっての外出は天女絡みの人間のみ。先生方が把握しているのかすらわからないこの状況では、私の発言は八左ヱ門だけではなく、他の面々へも影響する。

天女様の登場と共に生じた歪みと澱み。それが一致してしまうということは、本当に、彼女がすべての元凶であることを意味している。そうなれば、私たちには彼女を「消す」大義名分を持つことになってしまう。その時、今は私の手前もあるだろう静観に徹し各々の委員会業務に務めている五年生がどうするのか。
そこまで考えて、口元に自嘲めいた笑みを浮かべた。

一体私はどうしたいんだろうか。これではまるで、天女様を守りたいアイツらと結局同じ場所に行き着いてしまうではないか。
大義名分を持つも何も、本当はわかっている。彼女自身がたとえ極普通の女子高生だとしても、本人にその意図がなかったとしても、そこに存在しているというだけで歪みを生んでいるという時点で排除すべき存在なのだ。一人の少女と、六年共に生きてきた級友、多数の後輩たちと。天秤にかけるまでもなく、私にとってどちらが重要であるかなど論じるまでもない。

わかっていて、動かないのはまず優先させるべきが後輩たちの日常を保つ事であったから。そしてもうひとつ――アイツらの存在がある為。
アイツらを、敵に回すのは避けたかった。最弱とされる私とでは分が悪いと思っていたし、現状敵に回せば必然的に六年と五年が対立することになる。天女様を崇拝しているという四年生は六年につくだろう。……学園分裂の筋書き一丁上がり、である。そしてそのまま外部からの敵に狙われ、下級生たちが危険に晒される、と。
三文芝居でももう少しまともな台本ではないか。

「まあ一番ろくでもないのは私だけどさ……」

軽い反動をつけて身体を起こす。蝋燭の灯が揺らめいて、壁に映る影もまた同じように動いた。
アイツらを敵に回したくない。笑って、喧嘩もして、それでも一緒にいた。遠い昔のような、当たり前だった私の日常。それを今も取り戻したくて、失いたくなくて。

「ははッ」

乾いた笑い声が喉を振るわせる。
ぎゅうと握り締めた手の中で、貝殻が軋む音がした。
そんな甘い事を考えている私こそが、一番手に負えないんだ。

「……ごめんね?」

口をついてこぼれた謝罪が、ひとりきりの部屋に落ちて夜に吸い込まれるようにして消えていく。それは「彼ら」に向けて、そしてもしかしたら無意識に「天女様」に向いていたのかもしれない。
白い包帯が、視界の端に映った。
この先にある想定したくない未来の断片のような存在のようなそれ。
白。真っ白。そして、彼岸の赤。そんなものは、私の守るべきこの場所に常に隣り合っているけれど。それは決して貴女によってもたらされるべきものではないんですよ、天女様。

「私は…私のものを取り返す」

ひとり、誓うように呟く。

ねえ、天女様。

私の日常。私の箱庭。私の愛するものすべて。貴女の元から。全部、ぜんぶ。

「返してもらうよ」

その為に、私は動くよ。

唇に浮かぶのは、笑み。そこにある感情なんて、私だけが知っていればいい。


踏み出せ、そして動き出せ
(20110719)

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