最弱の庇護者

八左ヱ門が長屋に戻ってきたのは、外が若干白み始めた明け方だった。

「あー!疲れたァァァ!!」

叫ぶようにそう言って、ごろんと床に転がる。時間を考えろと言ってやりたいところだけれど、忍務帰りでそれなりに薄汚れている八左ヱ門を前にしていると仕方ないとため息を吐くに留め置いた。

「先に風呂にでも入って来いよ」
「水浴びは一応したんだけどなー。……臭うか?」
「まあそれなりにねえ」

同じく呆れ顔ながら、雷蔵は柔らかく苦笑した。
汗の臭いに紛れて顔を覗かせるのは、獣の臭い。恐らく獣遁でも使ったのだろう。
先輩に八左を付けた学園長先生の思惑はそこにある。
八左ヱ門の獣遁は学園随一だ。獣を手なずけ意のままに操る事に掛けてなら右に出る者はいない。
学園で飼育している狼を一匹連れて行くと言っていたから、賊のねぐらでも探ったのだろう。
それに加えて。

「宝禄火矢でも使ったか?」

火薬とそして僅かにだが錆くさいような臭い。馴染みあるそれだが、いやに火薬の臭いが主張しているなと何の気なしに口にしてみれば、八左ヱ門は微妙な顔をした。

「何だ、手間取ったのか?」
「ん?いや、別にそういうわけじゃねェんだけどさ……」
「そういうわけじゃないんだけど?どうかした?」
「朔先輩って、やっぱり六年だよなあと思って」
「は?」

脈絡のない発言以前に、何を当たり前のことを今更言っているんだ。そんな思いが全面に押し出されていたのだろう、八左ヱ門は私たちを見上げる顔に苦笑を浮かべる。

「ほら、先輩ってさ六年最弱とか言われるだろ?」
「……ああ。まあな。何だ、まさかお前もあの連中みたいにそれを鵜呑みにしてたわけじゃないだろ?」

六年最弱。決して名誉とは言いがたいその二つ名を勘違いして捉える者は意外と少なくはない。六年を負かして自分の実力を示したいと考える身の程知らずというか、若干方向性を間違った自信家な輩は五年以下に少なからず存在しており、そう言った生徒に限って相手に選ぶのは朔先輩だったりするのだ。
最弱であるのなら、己の力を持ってすれば勝ちを得ることができるのではないか、と。
確かにあの良くも悪くも個性の強い先輩方――特に暴君と図書室の番人に挟まれているせいで、朔先輩は傍から眺める分には線の細さや身の丈の小ささから実際より随分小柄に見えるし、それがあの人についた「最弱」という言葉と相まってそう思わせるというのも理解できないでもないけれど。

「でも先と周りが読めないって、忍者として致命的だよね?」

苦笑交じりに首を傾げる雷蔵に、八左ヱ門の表情が引き攣る。

「雷蔵…さらっと毒吐くの止めてくれ。心臓に悪いから」

でもまあその通りだけどさ、と八左ヱ門が呟くように言った。
朔先輩は六年の物差しで考えた場合の最弱なのであって、それは決して下級生にすら劣るというわけではない。それに気付きもせず、うかうかと勝負を挑むことは愚かでしかない。ましてや先輩の周囲には他の六年生もいるのだ。先輩を侮り喧嘩を売るということは下手をすれば六年を敵に回すという事に等しい。

「で?それがどうした?」

話を戻すように先を促せば、「よッ」と軽い反動を付け身体を起こすと、八左ヱ門は胡坐をかき口を開いた。

「今回の忍務を学園長から命じられた時に言われたんだ」
「学園長から?何を?」
「今回は朔先輩の指示を受けて動けって」
「先輩の?」

どういうことかと目線で問う私たちに、八左ヱ門ぽりぽりと頬を掻く。

「俺のやり方と先輩のやり方は全然違うだろうから、力だけじゃない方法を学ぶにはいいだろうって」
「ああ、そういうことか」

八左ヱ門は五年の中でも力技を得意とするタイプだ。対する先輩は、力ではどうしても男に劣る。言い換えればそれを補う術を知るからこそ六年まで進級してこられたということになる。

「なるほどな。で、それでさっきの話になるわけか」
「そういうこと。さすがは六年だよなあと思ってさ。なんて言うか、先輩自体はいつも通りなんだけど、動きとか段取りに無駄がないんだ。最初の行動が後々ちゃんと意味を持ってくるように出来上がっててさ。組み合わなくても相手をどうにかできるように動いてて。そりゃ俺たちもそれなりには実戦経験を積んでるだろ?でも、先輩といるとまだ足りないんだなあって思った」

これが六年生かって、改めて思ったんだ。

いつの間にか笑みを消した八左ヱ門は、真摯な顔でそう話す。

「……そりゃそうだろう。何せ私たちの先輩だからな」

笑い飛ばそうとして、私らしくもなくしくじった。
笑いというよりどちらかと言えば苦笑に近い曖昧な表情。おそらく私たちは同じことを考えている。八左ヱ門と同じように笑みを消した雷蔵と、三人の間には沈黙が落ちた。
当然だと誇る気持ちは、あった。けれどそれを押しつぶすように、別の感情が湧き上がる。

一年同士。一年と二年。二年と三年。三年と四年。隣り合う学年は仲が悪い。それはその近しさ故に互いに張り合う為だ。しかし学年が上がるにつれて零れ落ちるようにして級友が減っていく中で残った者同士という意識は次第に芽生え、そうして何時しかそれは少しずつ薄らいでいく。
私たちだって、下級生の頃は多かれ少なかれ今の六年の先輩方と張り合ったことはある。

それでも、『彼ら』はいつだって『私たちの先輩』だった。朔先輩だけでなく、『彼ら』全員が。
羨望と、親愛と、少しの嫉妬と、それから負けたくはないと張り合う気持ちと。そんなものをない交ぜにして追いかけていたはずの背中。
七つあったはずの背中。
それが気付けばたったひとつ、一番小さなそれしか残っていなかった。
一番小さなあの人だけが、今やこの学園を支えようとしている。
あの人のいた場所にいる、女の顔が脳裏を掠める。たった一人でこの場所を狂わせている女の顔が。

「…先輩は…」

沈黙を破ったのは八左ヱ門だった。元来明るく賑やかな男だけれど、忍務帰りで多少気が立っているのかもしれない。続く言葉に、ほんの僅か私たちでなければきっと気付かない程度に孕んだものがあった。

「先輩は、天女をどうされるつもりなんだろうな」

それは何度となく私たちの間で繰り返された疑問だった。五年全員で天女を始末してしまえばいいのではないかと話したこともある。今の六年生が相手であるならば、勝機も見込めるのではないかと。けれどその度、ただ一人残った朔先輩の存在がそれを踏み止まらせていた。結局の所、私たちも先輩に甘えているのだ。そして心のどこかで下級生たちと同じように六年生が戻ってくることを願っている。情けないと、甘ったれているといえばそれまでの話、追いつき追い越したいと思う心と同じほど、彼らに頼る心があることを否定できない。

「……僕にはまだ、わからない。でも先輩には、何かしらの考えはあると思ってる」

ぽつりと零した雷蔵が、私を見遣る。

「三郎は?」
「私も、正直なところ先輩が天女をどう思っておられるのか、どうしようとされているのかはわからない。ただ」
「ただ?」
「あの女はこの学園に不要のものだとしても、今私たちが先に動けば先輩が守ろうとしているものは壊れる気がする」

あのひとがひとり守ろうとしているもの。
それは下級生たちの日常だ。
委員会が活動を停止することで滞るものを動かし、外部に学園の異常を知らせることがないように取り繕う。それは問題の解決には繋がらないかもしれないけれど、まず学級委員長委員会に所属する者であれば手をつけなければならない事案だった。

「だから今は、あの女に関しては静観を続ける」
「…まあ、それが無難だろうけどな」

八左ヱ門の表情には、それしかできないことが歯がゆいと浮かんでは消える。

「だがもし先輩が動かれるのであれば」
「……三郎?」
「先輩が動かれるその時は、私は誰を敵に回してもそれに従うさ」

二対の瞳が私を見つめる。その視線の意味を問わねばならぬ程、私たちは浅い付き合いではない。
先輩に重荷を背負わせているというのではと思う気持ちはあった。すべてを押し付けているのではないかとも思った。それでもあの人は私たちの先輩で、私たちは結局、あの背中を追いかけるのだ。



いつだって、前を進む

(20110715)

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