太陽みたいな、ひと
地面を蹴り駆ければ、耳元で風が行過ぎる音がした。 いつの間にこんなに早く走れるようになったのだろう。 何となく考えて、いつだなんて考えるだけ無駄だと思い直す。六年という決して短くはない学園で過ごしてきた日々が、私に駆け跳ぶ術を与えてくれたのだから。 私は背後に続く気配にちらりと目を向ける。 「八左ヱ門」 「はい」 呼べば、返事と共に身体一つ後ろを駆けていた後輩が隣に並んだ。 呼吸を乱すこともなく悠々と走る姿は私に獣の姿を思い起こさせる。頭に浮かんだ姿形そのままに、後輩の向こう側に彼の髪とよく似た毛色の狼の姿を認め、私は目を細めた。 「朔先輩?」 「何ですか?」とその視線が問う。 「…お前も貧乏くじ引いたねえ」 「へ?貧乏くじ?この忍務が、ですか?」 「うん、そう」 八左ヱ門は目を瞬かせ、いきなり何だと言わんばかりに不思議そうに小首を傾げた。年よりもいくらか幼さを感じさせる仕草に苦笑する。 五年の中でも八左ヱ門は大柄な部類に入る。その名の通り竹の如く伸びに伸びてきた背丈は、六年連中とそう変わらない。それでもその精悍さを増す顔に過ぎった幼い表情は、下級生の頃の八左ヱ門を思い出させて、少し笑った。 「でもまあ、頑張ろうか」 「そうですね」 ひとり勝手に納得する私を気にするでもなく、あっさりと八左ヱ門は同意してみせる。 私は一人と一匹に向けていた視線を進行方向へと戻した。 「ほんと、貧乏くじだよ」 こぼれた呟きをかき消す風の音が遠退く。代わりに「朔よ」と私を呼んだ学園長の声が蘇った。 「今回の忍務じゃが、これが正式な依頼書じゃ」 目を通すようにと渡された紙には、書き手の几帳面な性格を推測させる文字が並んでいる。 文章自体も簡潔で読みやすい。しかしそんなことはどうでもいい。 「学園長先生…。これは…」 「気に入らん、という顔じゃな?」 「これを気に入る人間は、人間として少々問題があるのではないでしょうか?」 露骨に眉を潜める私に、学園長は面白がるような笑みを浮かべる。 「まあそれはそうじゃろうな。しかしそれが忍の仕事じゃ」 さすがに一枚二枚は余裕で上手だ。伊達に長く生きてはいない。経験値の差は顕著だった。 毎度毎度ぽんぽん反論が思いつくわけもなく押し黙った私に、学園長は何を思ったか「やはりひとりでは心もとないかのう」と独り言のように呟いた。 「私ひとりでは不安ですか?」 「いや?お前ひとりでもさほど心配はしておらんよ」 至極あっさりと返された答えに、何だか拍子抜けする。六年最弱である私では力不足、と断じられたのだろうかと一瞬思っただけに余計にだ。 「じゃが、多少手間取るやもしれぬとは思うたがの」 「手間取る、ですか?」 「あちらは早々の解決をお望みのようじゃ」 早々? 生徒に与えられる忍務は基本的に授業に差し障りの出ないように、長くとも数日単位のものばかりだ。だからそもそもの前提としてこちらも短期での忍務完了目指しているのだけれど。 首を傾げる私に、学園長は指を一本立ててみせる。 「一日、ですか?」 「一晩じゃ」 「…一晩。え、一晩で山の中から山賊のねぐらを見つけて仕事を終えて来いってことですか」 それは確かに少しばかり手間取るかもしれない。 どうしようかなあと頭の中で段取りを組み始める私に、学園長がのんびりと言った。 「五年の竹谷八左ヱ門を付けようとは思うておるがの」 「八左ヱ門を、ですか」 「あれは野山には殊更強かろう」 「それはまあそうでしょうけど…」 意味深な物言いに軽く眉を上げる。学園長の言いたい事はわかる。八左ヱ門の得意分野を考えれば答えを出すことは容易い。 山野に潜み、人々を襲うという山賊。その素性まではわかっているというのに、依頼主たる某領主様は山賊のねぐらまでは掴み切れていないらしい。 そんな状態で依頼する方もする方だ。 「無責任ですねえ」 学園長は別段気にするでもなく、飄々と言ってのける。 「我らは忍じゃ。情報を得、それをいち早く運び、または上手く操ることこそ我らの本分」 「わかっていますよ。調べる事も…というかそれこそ重要な忍務のひとつ、でしょう?」 「そうじゃ。その点において、今回八左ヱ門は役に立つじゃろう」 八左は生物委員だ。委員長代理まで務めるあの後輩は獣の扱いに長けている。その八左なら、狼に賊の匂いを辿らせねぐらを見つけることはさほど難しくないだろう。 「そうでしょうけど……」 なおも渋る私を窘めるように学園長は言葉を継いだ。 「実戦経験を積むことしかり。六年の戦いぶりを間近で見ることもまた、勉強じゃ。あれもお前の後輩じゃろう。面倒を見てやれ」 「……はい」 了承の意を示す為頭を下げた私には学園長の顔は見えなかった。けれどきっとやれやれと言わんばかりに苦笑を浮かべているのだろう。 学園長にはいつだって、結局大方のことはお見通しなのだ。 後輩という言葉で括るなら、五年以下はすべて私の後輩だ。最上級生として六年には彼らの手本であり同時に最も幼い庇護者であることが求められる。 たった一年。五年との距離はそんなものだけれど、それでもだ。年長者である以上、私たちには彼らを補い守り導く義務がある。 かと言ってこれ以上の拒絶は、単なる後輩への侮辱だとわかっていた。 プロに最も近いと言われる私たち六年。それに継ぐ高学年である五年生。その中には鉢屋三郎を筆頭に六年にも勝るとも劣らないと言われる者もいるし、五年ともなれば実戦に通用するだけの実力は既に養われている。 六年と比べて不足しているのは経験値であり、それを除けば彼らとて忍務を遂行するには十分な戦力だった。 それを知りながらも拒絶するということは、五年の八左ヱ門の実力を否定するということに他ならない。 「竹谷だけでは不安だというのなら、他にも連れて行って構わんぞ?不破でも鉢屋でも。い組の尾浜や久々知もお前には懐いているじゃろう。あの二人も中々に優秀じゃぞ?」 「……知っていますよそんなこと」 茶化すような学園長に、顔を上げて唇を尖らせた。 兵助や勘右衛門が優秀なことくらい知っている。伊達に五年も先輩をしているわけではない。いや、試験の度に何でか結果を報告しに来るから知ってるんだけど。 「八左ヱ門だけで十分です。あの子だってやる時はやりますから」 「そうかそうか」 学園長は私の答えに満足したように頷いた。 「では、実行は明後日。竹谷にはわしから伝えておこう」 好々爺然とした笑みに、私は了承以外返す言葉もなく探す必要もなかった。 「……って結局何か学園長に上手いこと乗せられたような気がしなくもないんだよなあ」 一連の諸々を思い出しつつ呟けば、八左ヱ門が怪訝な顔をしていた。 「先輩?どうしたんですかさっきから」 何か変なものでも食いました? 「落ちてたからって食っちゃ駄目ですよ」 「どういう心配の仕方だい。ていうか君の中の私ってどんなけ食い意地張ってんのさ」 食べないから。別に落ちてるからって何でも拾って食べないからね。…場合にもよるけど。 「へ?いやあ…あははは」 その生物委員会笑いで誤魔化すの止めてくれ。私今何かまずいもの踏んだの?って気分になるから。 「…まあいいけど。言っておくが、私は特に変なもの食べた覚えはないよ」 「ならいいんですけど」 「うん、君が結構真面目に心配してくれてるみたいなのはわかった。……ん?」 傍から聞いていればきっとふざけているとしか思えない会話を交わしていると、ふと視界を灰色の固まりが横切った。 八左ヱ門の隣にぴたりと付いて走っていた狼が、ぐんと加速し前に出たのだ。 「おほー!朔先輩!近いみたいですよ」 「みたいだねえ」 匂いの元へ一直線に駆ける灰色の背を追いかけ、私たちも速度を上げる。 「八左」 「はい?」 いつの間にか私より半歩前に出ていた八左ヱ門が振り返る。私は一歩を踏み出し、八左に並んだ。 「とっとと終わらせて、さっさと帰ろう」 「はい!」 勢いよく八左ヱ門が頷く。 その顔に浮かぶのは闇に紛れて忍ぶには勿体無いような、太陽みたいな笑みだった。 不意に、思い出すもの (20110703) [目次] [しおりを挟む] ×
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