なみだ、ひとつぶ。

天女様ご一行と別れ、心持ち重い足を引きずるようにして学園長の庵を目指す。ふと視線を落とせば、袖口に小さなほつれが見えた。
こりゃ夜にでも繕っておかなければ。でないとすぐに大きな穴となって修繕するにしてもややこしくなってしまうし。

……私たちみたいだなあ、なんて浮かんでそれを振り切るように小さく頭を振った。何を馬鹿なことを思っているのだろうか、私は。
手足や顔こそ水で洗い清めたとはいえ、授業後そのままの制服は薄汚れ、屋外での組手だった為かどこか埃っぽい。

「洗濯…しないとなあ…」

誰に聞かせるでもない呟きが、口からこぼれて耳から戻ってくる。今更ながらに、果たしてこんな格好でお茶など運んでも良いものだろうかとぼんやり考える私の耳に、呟き以外の音が届いた。
ぱたぱたと聞こえる軽い足音に、私は歩みを止めて振り返った。

「先輩!蓮咲寺先輩!」

足音に続いて私を呼ぶ声がして、おやと眉を上げた。変声期前のやや高いそれは、明らかに下級生のものだ。
次第に足音は近く大きくなり、角を曲がって飛び出すように現れたのは、やはり井桁模様の制服三人組だった。

「乱太郎、きり丸、しんべヱも。どうした?そんなに慌て、て…おわ!」

どん、と駆けて来た速度を落とすことなく、三人組の一人が飛びついてくる。
慌てて盆を頭の上に掲げるようにして、何とかお茶をぶちまけるという事態は回避した。が。

「先輩、大丈夫でしたか!?」
「へ?」

まるで私にしがみつくようにしてぶつかってきたその一年生――きり丸が、顔を上げたかと思えば慌てたようにそんなことを言う。

「大丈夫…って何が」

少々面食らいながら訊ね返す。

「だって先輩、さっきあの人と一緒にいたでしょう!?」
「あの人?……ってああ。天女様?」

それがどうしたの、と言おうとしてできなかった。きり丸は血が出そうなほどきつく唇を噛み締めていた。こぼれそうな何かを堪えようとするように。小さなその子の後ろへ目をやれば、彼の心優しい友人たちもまた、泣き出しそうな顔で私たちを見つめている。

「先輩も」
「うん?」
「おれたち先輩も、天女様とずっといる方が楽しいって思うんじゃないかと思って……」
「へ?私が?ははッ、残念だけどそれはないかなあ」

だって私もこれでも色々忙しいんだよ。
そう言って軽く笑い飛ばせば、一年生三人は驚いたような顔をして私をじっと見つめていた。

「じゃ、じゃあ先輩は、あの人とずっと一緒にいないんですか?」
「まあそういうことになるかね。顔を合わせれば喋るくらいはするけど」

できればそれも避けたいんだけどなあ、なんて大人気ないことは勿論胸の内で呟くに留め「私では役不足だろうしね」とおどけて見せた。

「そんなことないですよ!」
「え?」

…きり丸?どうしたの、お前。

「おれ…おれあの人嫌いです」
「きり丸?」

俯いた一年生の顔を覗き込んで、ぎょっとした。
吊り気味の目からぽたりぽたりと雫が零れ落ちて、床に小さな染みを作っていく。

「ど、どうしたのさ」

慌てて懐を探ってみるけれど、さっき無造作に突っ込んだ会計帳簿ばかりが指先に触れて目的のものはなかなか見付からない。もどかしさに舌打しそうになりながらもようやっと掴んだ手ぬぐいを引っ張り出し、私は少々乱暴にきり丸の顔を拭った。

「ねえどうしたんだい、きり丸」

視線を合わせるようにしゃがみ込む。
水滴が雫となり、雫がこぼれて丸い頬を濡らしていく。漏れそうになる嗚咽を必死に飲み込んで、きり丸はぎゅっと拳を握り締めていた。

「だって中在家先輩が委員会に来ないのは、あの人のせいでしょう?あの人がいるから!そのせいで、雷蔵先輩だっていつもよりずっと大変なのに!あの人は何にもしてないじゃないッスか。いつも綺麗に着飾って、お喋りしてるだけじゃないですか。なのになんで…おれのこと可哀想なんて言うんですか?」
「可哀想…?」

私の訝しげな声に、きり丸の後ろでおろおろとしていた乱太郎が、口を開いた。

「あの…」
「うん」

言ってごらんと促せば、僅かな逡巡を見せた後に乱太郎は「ついこの間のことなんですけど」と事の次第を話し始めた。



その日、彼ら一年は組は授業を終え長屋へ戻る途中だったらしい。
そこへ偶然通り掛ったのが天女様だった。その時の彼女はいつも通り愛らしい装いをしていたけれど、いつもと少し違うことに周りには上級生の姿がなかった。

『こんにちは、天女様』
『あら、こんにちは』

最初に声を掛けたのは、乱太郎だった。それに続くように、彼らは口々に挨拶をして、天女様はそれににっこり微笑み返した。

『ふふ、こうしてお話するのは初めてね』
『え、と…そうですね』

軽い足取りで近付いてきた天女様にそう言われて、正直なところ彼らは戸惑っていた。天女様のことは嫌いではない。綺麗でふわふわしていて、何より六年生たちが大事にしているのだ。きっと素晴らしいひとなのだろうと一番小さな彼らは思っていた。
けれど大好きかと訊かれれば、それも少し違うと思っていた。

幼いと言えども幼児ではない。彼らは薄々気付いていた。六年生が委員会に現れなくなった『理由』を。
それは彼女がいるからで、六年生たちは委員長であるよりも彼女の傍で時を過ごす事を選んでいるからだということを。

嫌いではない(だって先輩たちの大切なひとだから)。
大好きではない(だって先輩たちをとってしまったひとだから)。

実戦経験豊富といえども一年生だ。何事にでも上手く対処できるというわけではない。戸惑う彼らに、突如天女様が声を上げた。

『もしかしてあなた、きり丸?』
『え…おれッスか…?そうですけど』

天女様はその大きな瞳できり丸を見つめていたかと思うと、いきなりその身体を抱きしめた。

『ちょ…何なんですか!』

いきなりほとんど初対面の相手に抱きつかれれば、きり丸でなくとも自然な反応だろう。けれど天女様にはそうでないらしく、小さな抵抗をするきり丸の身体をさらにぎゅっと抱きしめた。

『…いいのよ、きり丸。そんなに強がらなくっても』
『……は?』
『今まで、苦しかったでしょう?悲しかったでしょう?辛かったでしょう?』
『あんた、なに言って…』
『大丈夫、わたしはちゃあんとわかってるわ。今までひとりでどれだけ心細かったか辛かったか。でもね、もうあなたは我慢なんてしなくていいのよ?』


「……それを、きり丸に言ったのかい」
「はい…」

どうすればいいのかわからないという顔ながら、乱太郎はこくりと頷いた。きり丸は顔を伏せたままで、しんべヱがその様子を心配そうに見つめていた。
ぞわりと、背筋が粟立った。目を潤ませてそんな台詞を吐いたのだという、天女様に。

貴女は一体、何様ですか?天女様?笑わせる。所詮は私と同じただの人じゃないか。
一体何の権利があってこの子に対して偉そうにそんな陳腐な台詞が吐けたというのか。
この世の何も知らない貴女に、この子が負わされた何がわかるというのか。
落ちた沈黙を破るように、きり丸が顔を上げた。
そしてもう一度叫ぶように、きり丸は言った。

「おれあの人嫌いだ!」
「きり丸……」

ぼたぼたと零れる涙を止めようとするように、小さな――けれど傷だらけの手が目元をごしごしと擦る。その後ろに立った二人は不安げな顔のまま、それでもぎゅっときり丸の制服を握っていた。
悲鳴のようだと、思った。
失いすぎたこの小さな後輩の、決して弱みをひとに見せようとしない子どもの、全身から溢れた悲鳴だと。

「せんぱい、ねえ先輩」

きり丸の手が、私の制服を掴む。たった一人逞しく生き抜いてきたそれが、小さく震えていた。

「先輩はおれのこと、嫌いになりますか?天女様のこと嫌いなおれを嫌いですか」

ああ、何て愚かなのだろう。そんな当たり前のことを尋ねるだなんて。

「私が君たちを嫌いになるわけないだろう…?」
「ほんッ、ほんとう、ですかッ?」

きり丸らしくもない。しゃくりあげながらも必死に確かめる後輩に笑って頷いてやる。

「長次だって…すぐにわかるさ」
「中在家先輩も…?」
「ああ。だってあいつも、君たちが嫌いになったわけじゃないんだもの」

ただ少し、惑っているだけだとは言わなかった。

「あのッ!先輩!」
「ん?どうした、乱太郎」
「善法寺先輩もですか!?」
「食満先輩も?」
「……ああ。二人とも…いやみんな戻ってくるよ」

私たちのやり取りを不安げに眺めていた乱太郎としんべヱがひどく真剣な顔で問いを重ねてくる。それにも頷いてやれば、後輩たちは泣きそうな顔のまま、それでもひどく嬉しそうに笑っていた。

あれだけ天女に現を抜かし、職務も本分もおろそかにしていて尚、最高学年として委員長としてこの子たちは慕ってくれている。
ねえこれを見てもまだ、お花畑でふわふわ漂っているつもりなのかい。

「大丈夫。みんなすぐに、元通りになるさ」

意識して出来得る限り柔らかな声を作り上げたことに、どうか気付かないでいて欲しい。作り物でも紛い物でも、君たちに笑って欲しいと願っている気持ちは本当だから。
後悔も憤りも怒りも悲しさも、全部気付かないで。
笑って欲しいなんて願い自体、私には思う権利もないのかもしれないけれど。


そうして時は動き出す
(20110617)


[ 30/86 ]

[] []
[目次]
[しおりを挟む]

×