砂上の楼閣

物事というものは、そう上手くいくものでもないらしい。
そして少なからず煩わしいと思っている事態ほど、望んでもいないのに向こうからやってくるようだ。

「……げ」

思わず足を止め呻いた私は、この場合決して悪くないと思う。
ちょうど廊下の向こうから歩いてくるのは、最近ひっきりなしに私に頭痛の種をばらまいて下さる元凶だった。
淡い桃色の小袖に同系色の小振りな花飾りのついた簪を差したその姿は、見間違えようなどない。……見間違いならどれだけよかったかな。
しかし残念ながら現在この学園内において、そんな華やかな装いをした少女など彼女――天女様以外有り得なかった。

彼女は手に盆を持っていてその上に湯呑みが一つ乗っていた。そこから察するに、どうやら誰かに頼まれてお茶を運んでいるのだろう。私はその周囲にへばりついている級友の姿を反射的に探したが、幸か不幸かこの時彼女はひとりだった。
珍しいこともあるもんだ。
授業は終わったばかりだし、ろ組の二人は先ほどまでの実技の授業に関して担当して下さった先生に捕まっているから無理にしても他の四人がすでに馳せ参じていそうなものなのに。内心小首を傾げつつそんなことを思う。
その数十秒後にはのんきにそんなことをしていた自分を恨む羽目になることも知らずに。

天女様はまっすぐに廊下を歩いてくる。そして彼女のいる方向というのが私の進行方向だ。つまりは私も彼女もこのまま真っ直ぐ進めば途中ではち合わせることになる。
正直ごめんだ。ろくなことにならない予感しかしない。忍たまの勘――というか私の本能が告げている。
面倒だけれど一度引き返して、天女様が立ち去ってから行こう。そう思ったのに、何とも間の悪いことによりにもよってまさにその瞬間、それまで手元に意識を集中させていた天女様が顔を上げた。

目が合った。

間が悪いのは私かはたまた彼女か。
何だか両方であるという気がする。
思わず天を仰いで誰にともなく恨み言をぶつけたい気分になったが、そうしていてどうになるでもない。
こうなってしまえばいつまでも立ち止まって突っ立っているわけにもいかず、私は仕方なく足を踏み出した。

「あれ、朔くん?」
「こんにちは」

貼り付けた笑顔で軽く会釈する。我ながら実に胡散臭い笑顔だろうなと思うが、天女様の方は気にしていないのか気付いていないのか、不審に思う様子も見せずに「こんなところで会うなんて思わなかったー」と笑い返した。
傍目には無邪気なそれだが、探るような色の浮かぶ目がひどくちぐはぐでおかしな印象を与えていた。
彼女の目は正直すぎるのだろう。大抵の場合に置いて笑っていようと悲しんでいるように見せていようと、その目だけが心の声を露骨に表してしまっている。
そんなことにも気付けないあいつらの目は随分と曇ってしまっているということだけれど。

「朔くん、どこに行くの?」
「私は所用で…会計委員会室に行くところです」
「会計委員会?もしかして今日は会計委員会があるの?予算会議とか!」

彼女が私にあまりよい感情を持っていないことは承知していたし、てっきり社交辞令として尋ねたものの聞き流すとばかり思っていたのに、何故か天女様は目を輝かせて身を乗り出すようにして食いついてきた。

「え、いえ……予算会議は年に二度ですのでもう少し先ですね」

彼女が前に出てきた分、心持ち身を引き首を振った私に、天女様は「なあんだ」とつまらなそうに呟いた。
何だはこちらの台詞だ。本当に一体何なんだ。

予算会議は春と秋、一年に二度行われる。会計委員たちと各委員会が希望の予算案を巡って熾烈な戦いを繰り広げるそれは、まあある意味では見物だ。もっともこんなことを言えるのは、私が直接的には予算会議に関係しない唯一の委員会・学級委員長委員会に所属しているからなのだけれど。
ともかく、既に春の予算会議を終えている時期であり秋の予算会議までしばらくの猶予があるのが今この時なのである。

「予算会議がどうかされましたか」

言外に貴女が興味を持つようなものでもないだろうにと含ませて尋ねると、天女様はちらりと私を見遣った。

「だってせっかくだから予算会議見てみたいなって思ってたのに・・・」
「予算会議を、ですか」
「きっと楽しいでしょう?」
「・・・はあ」

これだけ反応に困ったのは久々ですよ天女様。私の口から飛び出したのは実に曖昧な相槌だった。
予算会議が楽しいだなんていう感覚は、普段傍で眺めている私にすら縁遠い。
大体会計委員長どころか各委員長が委員会に出席していない現状でどうやって予算会議を開けというのか。まず予算案を作ることから躓くだろうことは目に見えて明らかだった。

「しかしあれは結構荒れますから、側で見るのは危険かと」

鉄砲生捕火やらトイペやら砲弾やら図書の貸し出しカードやら、使用武器自体は日常各委員会の扱っている代物であるのだが、使う人間が人間なので些細なものといえど無傷で済まないというのが毎度お決まりのパターンである。忍たまであってもその状態なのに、この天女様にとっては危険以外の何物でもないだろうに。

仮に今が予算会議の時期であり、予算会議が何とか開かれたとしても、学園内の殆どを占める競合地域すら彼女が一人で歩く事にいい顔をしないらしいあの六人が容易く掌中の珠の見学を許すとは思えなかった。
競合地域は確かに敵も味方も通る事を前提としているその性質上、さりげなく罠が仕掛けられている。しかしよく見れば罠の周辺には合図があるし、それさえ覚えてしまえば別に天女様一人で歩かせても問題はないだろうに。

「貴女を危険な場所にお連れすることは、あいつらも躊躇うのではないでしょうか」

自然浮かぶ嗤いを隠すように、困ったような顔をしてみせた私に、天女様はあっさりとこう言った。

「大丈夫だよお。だってきっと小平太たちが守ってくれるでしょう?それに、わたしがお願いすれば皆は絶対オッケーしてくれるもん」
「ははは・・・。あー・・・それはまあ、そうかもしれないような」

さすがは天女様。よくぞご存知で。最早失笑に近い笑いしか沸きあがってこない。
私の返事を肯定と取ったのだろう。天女様は気を良くしたように「でしょう?」と赤い唇を吊り上げた。
そしてふと思い出したように訊ねてくる。

「朔くんてろ組だったよね?そういえばこんなところにいるってことは、授業終わったの?」
「ええまあ…」
「小平太たち、どうしたのかなあ」
「…あいつらなら、先生に捕まっていましたからもうそろそろ天女様のところに走ってくるんじゃないですかね」

本当なら、終業と同時に駆け出しそうな勢いだった。それを引きとめられた時、一瞬だけ二人の顔に過ぎった煩わしげな色が忘れられない。
今までなら、決してそんな表情を見せやしなかったのに。

「きっと」

そうきっと。

ア ナ タ の せ い で 。

「貴女の為に」
「そうかなあ」

ちらりと天女様が上目遣いに私を見遣る。隠し切れずに滲むのは優越感だった。
ああ、駄目だ駄目だ。今はまだ。踏み越えてしまうにはまだ早い。まだ足りない。

「そう言えば」

甘い声が囁くように空気を揺らし、私の神経を撫で上げていく。

「この間ね、わたし雑渡さんに会ったの!」
「え?」

唐突に飛び出した父の名に、私は苛立ちも忘れて目を瞬かせた。

「朔くんは、雑渡さんて知ってる?」
「ええ、まあ……」

そりゃ父親だから。そう言うことを躊躇う私に天女様は訳知り顔で頷く。

「そうなんだ。他の六年生も知ってたよ。伊作の繋がりなんだよね?」
「それもありますけど……」

どうやら私と父様の関係までは知らないらしい天女様は、「やっぱり?」と目を細めた。

「そうよね。じゃないとプロ忍となんて簡単に知り合えないよね」

「ふふ」と何か思い出したのか、天女様は口元を押さえた。

「素敵だったなあ、雑渡さん。あのね、わたしねえ今度はわたしに会いに来てくださいねって言っちゃったんだあ。次は絶対に一緒にお茶するって決めてるの!」

何故だか自慢げに天女様はそんなことを言う。
お気の毒ですね、父様。霧散した苛立ちに代わって湧き上がるのは同情だ。まああの父様のことだから上手く交わしはするだろうけど。

「朔くんもいればよかったのにね。そうしたら、朔くんも雑渡さんに会えたのに。素敵だったなあ」

どこか夢見るような口調。きっと彼女が言っているのは、私に会いに来てくれたあの日のことだろう。
何だか彼女の口から父様の名が出る度に、自分の家に無遠慮にも土足で踏み込まれるような不快感を覚えている自分に気付く。
無意識に会計帳簿を持つ手に力が籠もり、かさりと鳴った紙の音が耳に刺さった。

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