一寸先に灯りをともして

「…先輩。朔先輩!」
「……へ?ってうわ」

ふと顔を上げると、至近距離と呼ぶには近すぎる場所に見知った顔があった。

「な、何。三郎、どうしたのさ。びっくりするなあ」

それこそ鼻と鼻がくっつきそうなところに、級友の顔を借りた後輩がいた。

「どうしたって…それはこっちの台詞ですよ」

呆れたような声でそう言いながら距離をとるようにして元の位置に戻っていく三郎を見遣りながら、私は自分が何をしていたのかを思い出す。

「ごめんごめん。ちょっとぼんやりしてた」

誤魔化すように笑いながらそれとなく首を巡らせれば、車座になった藍色の制服は五者それぞれ異なる表情で私を見ていた。
五年生たちに委員長代理を任せて今日で五日。一度それぞれの委員会の様子を話してもらおうと報告会と称して彼らに召集を掛けたのは私である。主催者がこれではお話にもならない。

「あー…ほんとごめんね?」

で、どこまで話したっけ。確か雷蔵、兵助、八に勘右衛門と順繰りに話を聞いて、三郎から臨時予算の枠組み報告を受けたまでは覚えているんだけど。
それまでの報告を確かめるように手元に広げた書付に目を落とす。
見慣れた自分の字だというのに、感じるのは些細な違和感。今さっきまでのやり取りはほとんど頭に残らず素通りしていたらしく、書き留められた内容は初めて目にするようなものが多かった。

別に居眠りをしていたわけではないけれど、似たようなもんだなあと苦く笑う。
考えても考えても、上手く答えが出せない問題が、ここ最近気付けば頭を占めている。
天女様と、天女様に傅き職分をおろそかにする一部忍たま。
それが半ば日常風景の中に溶け込みつつある。
不安や望まずとも増えた各々への負担。そんなものも当たり前のように変わらずそこかしこに転がっている今、学園の外に出掛ける者は少ない。それこそ天女様の取り巻きたちが頻繁に街へ繰り出しているくらいだ。
あの空気に、一体どれだけの人間が気付いているのだろう。どろりと澱んだ異質な空気に。

私は、どうするべきなんだろう。

あの人について調べることは、できるだろう。あの人の目的も、知ることは多分容易い。でもその先で私は彼女をどうするんだろう。
合致しすぎる条件がこれ以上に揃ったその時、どう動くべきなのか。
最善とは一体何なんだろう。
またしても考え込みそうになった私を「朔先輩」と呼ぶ声が引きとめる。

「……疲れてるんじゃないんですか?」

窺うように僅かな躊躇いの滲む声で口を開いたのは雷蔵だ。

「そんなこともないんだけどねえ」
「でも先輩、実質お一人で四つの委員会委員長を務められているようなものでしょう」
「大袈裟だよ。会計はほとんど三郎に任せっきりだし、作法は今のところ大きな修繕仕事もないから比較的のんびりしてるしね。ほんとに顔出し程度のことしかしていないんだ」

発せられた声同様に気遣うような色の滲む表情。それは雷蔵だけでなく、同じく私へと目を向けている他の四人にも多かれ少なかれ共通して見えるものだ。
修行が足りないなあ、私も。

「ほら、元々ウチの委員会は平時の活動なんて殆どしてないも同然だろう?」

お前たちはよく知っているだろうけど、と三郎と勘右衛門に話を向ければ二人とも実に微妙な顔をした。
「先輩」と三郎が手を上げる。

「何ですか鉢屋君」
「そのご質問、さすがにここで大っぴらには頷けないんですが」
「うんまあ元気よく頷かれてもそれはそれで困るかな…。いやそうじゃなくて」

確かに各学級のリーダーが集う委員会が、常時暇であるなどと半ば事実であっても堂々肯定するのは如何なものかと思うよ。言いだしっぺは私だけども。というか、そういう話ではなくてだね。

「要するに、今この状況で切羽詰って手が必要なのは私の担当委員会だと保健くらいだってことだよ」

だからそう気にすることじゃないんだってば。
ひらひら手を振りながらそう言えば、後輩たちは納得しかねるといった様子ながらも不承不承頷いてくれる。できることなら後輩たちにいらない心配など掛けずに影ながらひっそりこっそりかつ迅速に対応していければいいのだけれど、残念ながら私にはそこまでの処理能力は備わっていない。

『大丈夫、あの組頭の子なんだからきっとそのうちに上手くできるようになりますよ』

遠い昔と呼ぶには新しい記憶の中で、そう慰めてくれたのは確か陣内さんだ。そう言ってもらえるのは嬉しかったけれど、その反面そのうちって一体いつなのだろうと思ったものだ。
そして未だに「そのうち」は訪れる気配もない。
我知らずこぼれそうになった溜息に気付き、慌てて飲み下した。ただでさえ気遣われているのにその上で心配要素を増やすわけにも行かない。取り繕うようにしてお茶請けに用意してあった煎餅に手を伸ばす。ばりん、と殊更大きな音を立てて齧ったそれは甘辛い醤油味だった。

「あ、おいひいよ、これ」

お食べ、と鉢を輪の中央に押しやれば、「じゃあ遠慮なくいただきます」と生真面目に頭を下げて兵助が手を伸ばす。ぱりぱりと齧る小気味いい音の後「あ、ほんとだ旨いですね」と独り言のように呟いた。

「でしょう」

別に私が作ったわけじゃないけれど、見つけた者の特権というか何だか不思議と自分が褒められたような誇らしい気分になる。

「今度は塩味も買ってみようかなあ」
「塩味もあるんですか?」
「うん、色々あったよ。ほら、先月の終わりに街にできたあの店だよ」
「ああ、あそこですか」
「……あの、二人とも」
「ん?何かな八左ヱ門」

それまで比較的大人しく座っていた八左ヱ門が、どこか遠慮がちに口を開いた。



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