胡蝶の夢

一体何度目だろう。

どうにも寝付けず、私は布団の中で無意味に寝返りを打ってみた。
ごろりと転がっても、落ち着かない。夜も随分更けているというのに、睡魔は一向に訪れる気配を見せない。
溜息を一つ吐き、私はのろのろと身体を起こした。
しんと静まり返った室内に、その溜息の音だけがいやに響く。

六年間、他の生徒と同じ生活・同じ授業を行う事。
それが私が忍たまとして入学した際、学園長先生から提示された条件だった。
忍たまとして学びたいのなら、『女』という扱いはしない。他の者と同じ内容で授業を受け、同じ長屋で寝起きすること。
その言葉通り、長じるに従い生じてきた男女の体格差や体力の違いなど、授業を受ける上で考慮されることはなかった。条件を提示された時から覚悟していたことではあったし、そのお陰で他の生徒たちから妙な線引きをされなかったことは確かで、だから特段の不満はない。
寧ろ、風呂はくのいち教室のものを使わせてもらえているし、忍たま長屋で寝起きしていると言っても私に与えられた部屋は最初から長屋の一番端にある一人部屋だった。そんな配慮をしてくれた学園には感謝すらしている。

けれどこんな夜に無性に心細さを感じてしまうというのは、きっと我侭なんだろうなあ。
自嘲にも似た笑みを浮かべ、私はそっと部屋を抜け出した。
誰に憚る必要もないというのにそうしてしまうのは単なる習い性だ。
夜着のまま廊下に出ればひやりとした床板の感触を足の裏に感じる。素足でぺたぺたと床を踏み、私は目的もなく廊下を歩いた。一つ空き部屋を挟んでその向こうは小平太と長次の部屋。伊作と留三郎の部屋、仙蔵と文次郎の部屋がその先に続いている。
父様と別れて二刻ほどだ。子の刻を少し過ぎた頃だろう。前を通った級友たちの部屋は、どこも静かで物音は聞こえてこない。けれど中からは確かにひとの気配があって、彼らが床に就いていることを教えてくれる。

夜通しの鍛錬など珍しくもなかったのに、とい組の二人の部屋を通り過ぎた辺りで折り返しながら苦く笑う。
随分規則正しい生活をする忍者もいたもんだねぇと吐いた悪態は、外に出るでもなく消えうせるでもなく、そのまま胸の奥でどろりとした澱のように留まっている。

一体自分は何をしているのだろう。
自分の部屋の手間でもう一度引き返し、同じように廊下を歩きながら思う。
うろうろと熊のように歩いた所で、夢の世界に旅立った奴らが気付いて顔を出してくれるでもない。いっそ殺気でも向ければ起きるかなあ。いやそれなら叩き起こした方が手っ取り早いか。
なんて物騒な方向に思考が流れていく。

ぺたぺたと立てる間抜けな足音が、広がる闇に吸い込まれて消えていく。三度往復しても、結局誰も顔を出しはしなかった。
まあそうか。忍といえど、何時いかなる時も気を張って生きているわけでもなし当然か。
そんなことわかりきっているというのに、結局私は部屋に戻らずもう一往復した。
それでも、気付いてくれるのではないかとどこかで期待していた。気付いて、欲しかった。
その勝負の結末は端から知っていたけれど。

戻った自室は、やはり静かなだけだった。ひんやりとした壁にもたれて、ずるずると滑り落ちるように腰を下ろす。灯のない室内は自室だというのにひどく殺風景に思えた。

『……天女?』

訝しげな父様の声をぼんやりと思い出す。

『あの子が?』

私と会う前に食堂で天女様に会ったと父様は言った。

『ああ、それで彼らはあんなに私を警戒していたのか』

得心がいったとばかりに頷く父様には、さらりと掻い摘んで事のあらましを話した。
あの澱んでいるとしか言いようのない空気を味わった後では、取り繕うようにしてまで隠すことに意味などないように思えた。

『天女ねえ。それにしては随分と、俗物的なもんだったけれどねえ……』

細めた目の奥にある感情は私には読めなかったけれど、くつくつと咽喉を鳴らすようにして笑う低い声に父様が彼女に好意を抱いてはいないことだけはおぼろげながらに理解した。

『……何かありました?』
『ん?んー、あったというほどでもないけど、なかったわけでもない』
『何ですかその回りくどい言い方』
『些細な事だよ』

軽く色目を使われて、軽く嫉妬されたってところかな。
誰が誰にどうしたかまで把握するには十分で、痛む頭をほぐすように思わず米神に手をやった。

『あいつら……』

父様の歳を考えろ。というか相手を見て喧嘩を売れ。最早愚かというか間抜けなその些細な顛末に溜息も出ない。
十六、七の娘が父ほど歳の離れた相手に嫁ぐなどこの時代珍しくもないが、それは余程の好色かそういう趣味かはたまた政略かによるものだ。
残念ながらというべきか、父様はそのどれにも当てはまらない。そもそも先の世で言うところのファザコンと呼ばれようとも断固主張するが、父様は今でも母様一筋だ。
そして天女様にとってもそれは言えることだ。あの世代の女子にとって父様の年代の男は基本的に恋愛対象外だろうに。そりゃ例外もあるだろうけれど、忍たまたちを周囲に集めてお楽しみの様子を見る限り、十近く離れた男が対象となるタイプとはイマイチ思えないのだ。

恐らく天女様は少し欲目を出しただけだろう。学園外から新しい男が現れて、自分という存在を認識させたかったとかそんな理由だ、きっと。
だというのにあっさりと振り回されて、タソガレドキ忍軍忍組頭に喧嘩を売ろうとするだなんて。

『そこまで見失っているとは思いませんでしたよ……』

ああもう、と吐き捨てるように声に出せば、父様は慰めるように私の頭を撫でた。
昔から父様も母様も、ことある毎に私を抱きしめたり頭を撫でたりしてきた。多分今私が後輩の頭を撫で繰り回しているのはここの影響が大きいと思う。
思わずどうでもいいことをぼんやり考えていると、父様は『喧嘩を売られたっていうより単に警戒されていただけだけどねえ』と独り言のように呟く。

『何ていうかな。ああ、ほら猫が毛を逆立ててるみたいな感じ?傍目には可愛いもんだよ』

まあ当事者には面倒臭いけどねえ。
微笑ましいねえ、なんていう口ぶりとは裏腹に、若干目が笑っていない。
思わず親を相手に遠い目で謝りそうになってしまった。私悪くないのに。

『……にしても、半月前から変わり始めた空気と忍たま。現れた天女……か』

父様はのんびりとした口調で事実を並べる。

『偶然にしては出来すぎ、か』
『…………』

確かにそうだとは思うけれど、簡単に頷くには納得できない部分が大きい。
天女様と呼ばれ慕われる彼女の正体は、ただの人間のはずだ。私と同じかそれに近しい時代からやってきた未来人であるというだけで、彼女に空気を歪める力などあるはずがない。
実際、彼女自身『平成』の世からやってきたと公言している。そんな不可思議な力を持つ人間など転がっている世界ではない。
実情を知るだけに素直に肯定もできず、かといって話すには難しい話題に私は顔を伏せて口を噤むしかない。それをどう捉えたのか、父様は考えるように顎に手をやった。

『幻術使いか、どこぞのくノ一か……というのはまあ九割方考えすぎだろうけど』
『え?』
『ん?』

父様の言葉に思わず顔を上げれば、父様は驚いたように目を瞬かせた。

『父様は、疑っておられないのですか?』
『疑うには、あの子の手は綺麗過ぎるからねえ』

あんなやわらかくて真白い手で武器なんぞ握れやしまいと言う。

『あれはどこぞの姫のような守られる手だ』

傷一つない、真っ白な手。天女様天女様と傅かれるこの箱庭しか知らない彼女の手。

『何にせよ、矛盾しているな』
『矛盾、ですか?』
『そう、矛盾だよ。あの子は与えられることを不思議になど思っちゃいない。聞いた話と私が見た印象を照らし合わせただけだけれども、彼女にとって与えられる事も想われることも当然の権利でしかない。その意味で彼女は『無垢』な天女様かもしれない。だがね、『無垢』な存在は男に色目なんて使いやしないだろうさ』

頭巾の下で、父様がどんな顔をして笑っているのか、揺れた空気から窺い知るには十分だった。

『……朔』
『はい?』
『お前、これからどうする?』
『どう、ですか?』
『彼女が天女だとは私は思わないし、くノ一だとも思えない。……が、だ』

それでも条件が揃いすぎている。出揃ったのがすべてではないにしろ、現時点で目の前にある符丁は彼女を指し示しているとしか言えない。

『幻術妖術の類を扱えるのかまではさすがに判断しきれないが……』
『私は……私は忍たまとして、この学園と後輩たちを守るだけです』

落ちた声が自分のものだというのにどこか空々しく聞こえた。
原因は、彼女なのかもしれない。それでも『かも』という仮定では、私は天女を排除するとは言えない。
だって今あのひとが消えたら、小平太は文次郎は留三郎は、他のあいつらは、きっと気付く。それが私の手によるものだと。
それで正気に返ればいい。けれど返らなかったら?彼らは私をどんな目で見る?どんな声で罵る?そうして、どうなる?

嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

知らず知らず、私は自分の身体を抱きしめるようにして腕を回していた。

『お前が、片をつけるかい?』
『…………父様。天女様に関する諸々は、学園の問題です』

まるでそれは自分に言い聞かせるような声だった。別の誰かが、私の声を真似ているようだと思った。
こぼれるのは歪んだ笑いだけ。
正気に返ればいいと私は思った。つまり今の級友たちが正気ではないと言っているも同然じゃないか。
怖いと思った。結局私は、彼らから離れるのが怖いだけなんだと思い知らされる。みっともなくしがみ付こうとしているのは自分じゃないか。

『ですからこれは、我々が片付けるべきものなんです』

絞り出すように紡いだ声に、父様はただ一言『気をつけろ』とだけ言った。

「……気をつけろ、か……」

それは知れば知るほど得体の知れない存在になっていく彼女のことなのか。それとも彼女の取り巻きと化した彼らのことなのか。他の何かなのか。

「案外、頼りない私のことだったりして」

わー、有り得そうだなあ。
あはは、と口からこぼれた空笑いもすぐに途絶える。私は抱えた膝に顔を押し付けた。白い夜着が湿り気を帯びる。


――朔?どうした?


小平太の声が聞こえた気がした。
長次の手が、頭を撫でてくれた気がした。
顔を上げても、広がるのは寂しい夜だけで、あの太陽のような笑顔も木陰のような存在もそこにはなくて。
六年間同じ教室で学んだふたりは、いつも何かあれば真っ先に気付いてくれた。
どうした?と訊ねてくれた。
でもいない。今はいない。どれだけ私が足音を立てても見つめても、扉は開かれない。


私は、勝負に負けたのだ。


昨日も今日も明日の日も、変わらないなら、すべて
(夢であればいいのに)

(20110531)

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