「……朔」
「はい」
「お前が話したがらない『理由』は、この澱んだ空気に関係あることか?」
「え?」

澱んだ空気?何だそれは。
首を傾げて問えば、父様は面食らったような顔をした。この人がそんな顔するなんて珍しいなあと思う私を余所に、父様は今度は怪訝な顔をした。

「まさかお前、気付いていないのかい?」
「ですから、何の話なんですか?」
「朔、お前最近いつ外へ出た?」
「は?外、ですか?」

この場合の外が単に屋外を指すものではないとは理解できたが、問われる意図がいまひとつわからない。それでも私は指折り数えてみた。

「ええと…。確か半月ほど前、ですかね。その後は何やかんやで外出できなかったので…」

そうして今に至る。外出などしている場合ではない。

「半月?……半月前、か。私が最後にここに来たのは一月前だからな……」
「父様?」

口の中で何やらブツブツ呟く父様にどうしたんですかと問い掛ける。けれど父様はそれには答えず、私の腕をぐいと引いた。

「へ?」

気付けばその肩に担がれるようにして抱え上げられていた。一体何だと目を丸くする私を余所に、父様は瓦屋根を蹴り大きく跳躍した。
十五といえば子どもと大人の境にいるような年齢だけれど、身体だけは大人に近い。そんな人一人を担いでいることなど全くの問題ではないように、父様は軽々と闇の中を駆ける。

風を切る音がする。このまま進めば、学園の外に出てしまう。忍術学園のサイドワインダーの異名を取る事務員が出門票も書かずに飛び出すことを許してくれるとは思えない。
そんな私の思考を読んだように耳元で父様の声がした。

「ああ、大丈夫だよ。少し外に出るだけだ。彼に気付かれる前に戻るさ」
「その少しでも、気付くのが小松田さんですよ」
「違いない。人は誰しも一芸に秀でているというけれど、彼の場合はそれだろうねえ」

くつくつと父様は咽喉を鳴らす。プロ忍にも認められた能力、というと何だかすごいもののような気がする。いや実際あの執念というか何というかは凄まじいものがあるけれど。

「あれって一芸の枠で数えていいんですかねえ。……というかどこに行くんですか?」
「ん?ほら、この学園の裏門の傍に、一本杉があるだろう?」
「ええ。ありますが」

確かに父様の言うとおり、裏門の傍、丁度塀を越えたところには杉の木がある。普通学園内で一本杉と言えば、一つだけ高く聳えるその杉の木を指している。

「あそこさ」
「あそこ?」

何故?

「まあ行けばわかるさ。私の予想が当たっていれば、ね」
「はあ」

抱えているのが父様ということもあり、落とされる心配もない為、どうにも緊張感が薄れてしまう。気付けばつい四半刻前までの感傷的な気分やら寂しさなどすっかりどこぞに去っていた。
ちらりと見上げる先では父様の顔があり、その先にはぽっかりと月が浮かぶ。前を見据える父様の目は、少し楽しげに細めている。きっと頭巾の下に隠れた口元は緩い弧を描いているのだろう。

「さあ着いた」

たん、と一段大きく跳ねて落ち着いた先は、影を背負い聳えるようにも思える一本杉だ。
びゅうと風が吹き付ける。思わず目を閉じ、そろりと開いた私を可笑しそうに眺めながら、父様が私の体を下ろした。
ひゅうひゅうと風は吹き続けている。髪を揺らすそれが心地良い。無意識に、肺を満たすように空気を吸い込んだ。

「さて、どうかな」
「どう……って?」
「ん?やっぱりこの近さじゃ駄目かな?……まあ戻ってみればわかるか?」
「父様?どうしたんですか、さっきから。いつもに輪を掛けて変ですよ」
「大概ひどいよねえ、お前も。あ、これが噂の反抗期?」
「違うと思います」

軽口を叩きあいながら、父様が「戻ろうか」とまた私の体を抱えた。自分で戻れるのになあ、そんなことを考えつつもされるがまま大人しく担ぎ上げられる。父様はやはり軽々と枝を蹴った。たわんだ枝と葉擦れの音を聞く。一本杉と学園を囲む塀の距離は僅かだ。ほんの二、三度の跳躍で、そこは既に学園の敷地内。
結局何がしたかったんだろうかこの人。
……なんて考えていられたのは父様が学園に踏み込む直前までだった。

「…………え。何、これ……」

ひゅうひゅうと風は吹き続けている。そのはずだった。
けれど。

「さすがにわかったみたいだねえ。私の言葉の意味」

満足そうな父様の声を何だか遠くに聞いた。
絡みつく。身体に髪の一筋に。むわり、どろり、形容するならそんな空気が。

「澱んでる……ってこれ……」

呆然と見上げれば、父様は私を抱えたままでまた地を蹴った。そして校舎の上を目指して駆ける。

「ここは空に近い分まだマシみたいだねえ」

私の体を下ろすや否や、乱れてもいない呼吸を整えるように父様は一度だけ深呼吸をした。

「さて、私の言った意味がわかったかな?」

のろのろと頷く。頷くしかなかった。あれが、あの違いがわからないはずがない。
お前はこういうことには聡い子だからねと、父様が私の頭をゆるりと撫でる。

「何なんですか、これ」

父様に訊いても仕方ないとわかってはいたけれど訊ねずにはいられなかった。父様はやはり少し肩を竦めて「さあね」と言った。

「わからないが、少なくとも一月前にお前に会いに来た時はこんなことにはなっていなかったよ。何か原因があるとして、お前が気付かなかったということは、それが起きたのはお前が学園から最後に外に出た頃――半月前辺りからと考えるのが妥当かなあ」
「半月、前」

それは、まさか。いやでも。
ぐるぐると、仮定と否定が入り混じる。

「心当たりがあるみたいだね?」

朔。

「……何が、あった?」

鼓動が跳ねる音がした。


お伽話が現となっていきました
(20110509)

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